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ブログ−2011年

建築業界見晴台…「この一年を振り返る」         2011年12月30日(金)

 今年はなんと言っても東北地方太平洋沖地震による東日本大震災が、忘れ得ない大きな出来事ではないでしょうか。3月11日の地震発生時には折りしも私自身は建築現場でしゃがんで打ち合わせをしていたところで、台地を揺るがす大きな横揺れがずいぶん長い時間続きました。平成7年に起きたM7.3の兵庫県南部大地震の時は短い時間に激しく上下に建物が揺さぶられた記憶が残っておりそれとは全く違う揺れ方でしたが、その身体に感ずる地震エネルギーはかなり大きなものでこれは大変なことが起きたに違いないと即座に直感し血の気が引きました。周りの人達も顔色を失っていました。
 その嫌な予感が的中しこの地震は数百年に一度と言われるM9.0規模の巨大地震であり、また想定を遥かに超える大津波が街を浚い多くの人々を呑み込みました。その後も広範囲な東北沿岸沖のプレート全体(南北約500km・東西約200km)で無数の群発地震が長期間発生し続けました。以前から平和ボケと皮肉られていた日本でしたが、自然の驚異に対しての平穏ボケがあったのも否めません。私達が住んでいる日本列島は火山帯の上にあること、北アメリカ・ユーラシア・太平洋・フィりピン海の4プレートが集中する断層すべり地帯であることを今一度思い起こさなくてはなりません。
 日本の建築技術は世界有数なレベルだと評価されています。しかし今回は地震の揺れによる建物の倒壊と言うよりは、街ごと津波に浚われると言う被害状況なので、そんな次元の話をしていてもあまり役には立ちません。むしろ都市防災とか国土利用計画とかいったスケールの話です。人が建物を建てて住んではいけない地域・場所があると言うことです。公が国費を無駄使いして自然破壊をした上不必要な宅地造成をしてきたので我が国には住める宅地はたくさんあります。建築単体でももともと地盤の悪いところには建築すべきではないと言うことになにか共通するところがあります。
 平和ボケ・中流意識ボケ・不公平ボケ・娯楽ボケ・豊かさボケ・赤字国債ボケ〜日本人のボケも様々、中でも政治ボケが日本国を破綻へ向わせていることの方が大津波よりもっと怖いことかも…原発放射能汚染は原子力許認可権を持つ国による人災で、真の責任は東京電力ではなく国にあります。最強権限&利権は持つが責任は殆ど取らぬ国にもはや頼るのではなく、今改めて国民自らが防災意識を持つことが自然災害から身を守る最善の策だと思います。住民自身が津波被害を想定し住む場所を選びかつ迅速な避難行動をしたならば、今回の津波による犠牲者はもっと減らせたでしょう。

久里屋設計界隈散策−その18 日吉神社         2011年12月16日(金) 

日吉神社入り口鳥居を見る
日吉神社…名東区上社二丁目地内
 日吉神社は当社から南東東約1.7kmに位置しており、名東区役所すぐ西隣の上社二丁目地内にあります。地下鉄本郷駅と上社駅のちょうど中間辺り両駅より徒歩5〜6分くらいの距離で、地下鉄東山線の北側にあります。名東区役所に行くと、西隣にこんもりとした鎮守の森が見えるのですぐそれと判ります。南側の市道から石敷きのスロープを登り二つの鳥居をくぐって、さらに石段を上がった所で蕃塀越しに社殿が建っています。真正面の階段を上がると拝殿があり、その右手に社務所が建っています。創建年代などの由緒については不詳ですが、元禄7年(1694年)の『上社村覚』に記述があり、明治44年(1911年)には貴船神社の分霊を合祀したと言われています。
中央拝殿を斜めより見る
拝殿…右手に社務所が続く
 上社一帯の土地開拓守護神として元官幣大社日吉神社(滋賀県大津市)の分霊を勧請して建てられたとのこと。古来より“日吉山王さん”と親しまれ農工商の恵みの神とされてきています。ご祭神は大山咋神(オオヤマクイノカミ)と大己貴神(オオナムチノカミ)です。大山咋神はもともと近江の日枝山一帯を治める山の神で、お酒と酒造の神様でもあり日枝神社・松尾神社の神様として知られています。大己貴神は天照大神(アマテラスオオミノカミ)と並び国造りの神として知られる大国主命(オオクニヌシノミコト)のことであり国引きの神様、出雲大社の神様でもあります。昭和40年に氏子奉賛により社殿を改修しており、また社務所は平成16年に建てられたものです。

空に映る虹                        2011年12月2日(金)

揖斐郡大野町内石山に掛かる虹
 この写真は去る11月20日(日)12:00頃に、岐阜県揖斐郡池田町から揖斐郡大野町へと走行中に揖斐川に掛かる平野庄橋を渡ってしばらく行った辺りで、偶然北方の小山に見えた虹を車から降りて撮影したものです。後で地図で確認したところ正面の山は石山ではないかと思われます。この後本巣市へ入ってからも再び北方に見られました。さらに翌21日(月)13:00頃にも名古屋高速一宮線を北へ走行中に金華山右手の山に大きく掛かっている虹を連続2回も見ることができました。
 子供の頃はよく虹を見たような記憶があるのですが、社会人になってからは毎日忙しく働いており、空を見上げる余裕もなくなかなか見る機会もありません。庭の水遣り時を除けば見られる機会も減っているのかも知れません。間が空くと数年間も見られないときもあります。この2日間に計4回も虹を見られ何か良いことでもあるのではと期待しています。21日の虹は名古屋方面でも北方の空に虹が掛かって見えたとの目撃情報を数人の方からもお聞きしました。
 虹は赤から紫までの光のスペクトルが並んだ円弧状の気象現象。英語のレインボー(rainbow)は「雨の弓」を意味し、またフランス語ではアルカンシェル(arc-en-ciel)と言い、「空に掛かるアーチ」を意味しています。日本の伝統建築には虹梁(こうりょう)と言う部材があります。これは中央が反り上がって弧状になっている梁のことを指します。きっと語源は虹のように反り上がっていることからきているのでしょう。余談ですが当社の設計する建物もアーチ屋根を多く採用しています。
 日本の将来も視界不良となって久しく、この先日本の空に希望の虹が見えることがあるのでしょうか。戦後この小さな島国で一生懸命働き続けてきた日本国民は、莫大な公金(世界経済で見れば巨額資金)を負担し続けてきました。日本国民の努力と汗の結晶であるこの公金が無責任にも無駄使いされ続け、懸けてきた年金すらまともに貰えず社会保障も危うくなってきていると言う世界でも類のないお粗末な国家運営の日本、一体いつになったら公の権限に責任がセットになるのでしょうか?

久里屋設計界隈散策−その17 徳川園          2011年11月18日(金)  

龍門の滝 
徳川園…東区徳川町地内
 徳川園は当社からちょっと距離がありますが、西へ約6.3kmの東区徳川町地内にあります。公共交通手段としては、基幹バス2号系統徳川園新出来停徒歩3分・JR大曽根駅南口から徒歩10分・地下鉄大曽根駅/車道駅より徒歩15分等があります。駐車場もありますが台数に限りがありますので要注意。国宝の“源氏物語絵巻”展示で有名な徳川美術館や河内本“源氏物語”所蔵の蓬左文庫が隣接しています。ビルや住宅に囲まれた街中にあるのですが、園内に足を踏み入れると思わぬ日本庭園が拡がり、都会の雑踏を忘れ落ち着いたひと時を過ごすことができます。開園時間は午前9時30分から午後5時30分で、11月18日(金)〜12月4日(日)には紅葉祭が開催されています。
龍仙湖に映る観仙楼 
木々に囲まれる龍仙湖
 この場所は徳川御三家筆頭の尾張藩二代藩主光友が元禄8年(1695年)に造営した隠居所である大曽根別邸屋敷の跡地です。当時の敷地は13万坪(44万ha)もあり、庭園の泉水には16挺立の舟を浮かべたと言われているそうです。光友の歿後大曽根別邸は尾張藩家老の成瀬家・石河家・渡邊家へと主が変わりました。昭和6年(1931年)に尾張徳川家に返されたのですが、尾張徳川家第19代当主徳川義親によって名古屋市に寄贈、昭和20年(1945年)の名古屋大空襲で破壊・焼失された後は普通の公園として整備されていたが、平成17年(2005年)に池泉回遊式の日本庭園として築造されました。園内龍門の滝は尾張藩江戸下屋敷戸山荘跡から発掘されたものを移築されたとのこと。

久里屋設計界隈散策−その16 天満緑道(水の小径)    2011年11月4日(金)

水源地広場の落水石積
水源地広場…千種区宮の腰町地内
 名古屋市鍋屋上野浄水場は当社より西へ約3.5kmに位置しており、この浄水場のすぐ南にあるのがこの天満緑道で所在地は千種区宮の腰町一番33号です。駐車場がありませんので公共交通機関で行かれるのをお奨めします。交通手段としては基幹バス2ルートの谷口バス停か天満通りの天満通1バス停で下車するか、少し歩ければ地下鉄名城線の茶屋ケ坂駅か砂田橋駅で下車するのがよいでしょう。名古屋市水道通水70周年の記念にすいどう道の上部を市民が水と触れ合うことのできる憩の場として整備されました。また水の流れは、すいどうの水源から浄水場までを表し「水の小径」と名付けられたとのこと。上の写真が水源地広場の池で水源地を表現しています。
中流遊歩道
水源地広場から遊歩道を見る
 緑道の起点となるのは、浄水場南西角(谷口交差点)にある水道公園「水の丘」。名古屋市通水80周年を記念し1994に整備された公園で、噴水・ベンチ等もあり憩いの場となっています。ここから横断歩道橋で大通りを渡り水の小径の水源地広場へと行けます。ここから上の写真にある中流遊歩道を通じて、浄水場広場へと繋がり、さらにその先水道局東山管理事務所へたどり着きます。本来ならば、ここから県道関田名古屋線の大通りを横断歩道橋で西へ渡り東山給水塔に到着できるのですが歩道橋閉鎖の為渡れません。この給水塔は1930年に建てられた名古屋最古の給水塔で、春分の日とまるはちの日(8月8日)の年2回一般公開され内部に入り見ることができるとのこと。

建設業界見晴台…「深刻化するか建設労働者不足」     2011年10月21日(金)

 最近新聞等で見かける記事に建設労働者不足深刻化の話がよく出てきます。その大きな理由は東日本大震災の影響で東北や北関東を中心に建物の補修需要が急増したうえ、がれき処理にも多くの人員が割かれているためだと説明しています。この余波が大都市圏に波及し鉄筋工や型枠大工等の職人不足が工賃の上昇を呼び、東京や関西では鉄筋工事などの単価が震災前よりも約一割上昇、全国的に建設費の上昇や工事遅れに繋がる可能性が出てきているとのこと。
 2008年9月にアメリカで起きたリーマンショック以降、東日本大地震が起きるまでは官庁工事・民間工事ともに需要減による大きな冷え込みが続いていました。そのため労務費や建設資材の単価が抑制された状態が拡がっていました。限界を超える厳しい状態が続きゼネコンの下請企業からは単価の値上げ要請の声が強まる反面、それでも受注して企業の存続を図らねばならないと言う相反する矛盾をはらんだ複雑な展開をしてきました。
 ここへきてこの大震災の復興工事がどのような影響を与えて行くのか?長年建設業界は労働者の待遇改善が進まず、若年労働者も育たず中高年の労働力に依存していると言う特異な状況下にあり、また中高年労働者が遠方の被災地に移動するとも思えません。いましばらくは報道にあるような影響があるかとは思いますが、それよりももっと深刻な問題は高齢化した職人が仕事を止め始めていると言うことです。新聞等のそんな単純な読みが当たっているかどうかは分かりません。
 ここのところ、一ドル70円代の超円高水準が続いています。産業空洞化・工場海外移転は益々拡がろうとしています。ユーロ圏ではギリシャの債務超過問題が深刻の度合いを増してきており、世界経済の足を引っ張っています。またタイの洪水被害は長期化の様相で製造業を中心に深刻な影響もでてきました。日本人の働く機会が一段と弱まってきています。報道にあるような震災復興による建設業界の一面的な状況判断だけでこの先を予見するのはなかなか難しいのではないでしょうか。

 屋根に「水」文字                     2011年10月7日(金)

稲沢市内で見かけた民家の屋根
 これは昨年仕事で車を運転中にたまたま稲沢市内で見かけ、思わず懐かしい昔の記憶がよみがえり車から降りてその光景を撮影したものです。このように屋根妻に「水」と書かれた民家や土蔵は、今から40年くらい前の学生時代には田舎や古い町ではよく見かけたものです。よく考えてみれば最近ではこの記憶がすっかりなくなりかけるくらいにめっきり見なくなったものです。
 これが何を意味するものか当時はあまり関心もなく判りませんでした。当時はひょっとして水子供養を意味するのかなとも思っていましたし、また或いは大雨・洪水などの水害から建物を守る意味かくらいに思っていました。念のために調べてみると懸魚の代わりにこの「水」文字を描くことにより水の神通力により火災から建物を守る火伏せのまじないの意味を成していたようです。
 懸魚とは社寺建築には昔から付いているお馴染みのものですが、この懸魚は水に係りのある魚の形をした飾りであり、これを屋根に懸けることによって火伏せのまじないとしたのがそもそもの始まりであるようです。社寺建築の様式を庶民が使うわけにも行かずそれを模して「水」文字を懸けるように江戸時代末期の頃庶民に拡がり、明治時代にそれが定着したようです。
 このような地域・地方の景観を表出する様々な伝統・風習・文化を我が国は戦後の経済発展至上主義の中で破壊し続けてきました。建築・住宅は文化・伝統と深い繋がりがあります。文明の利器と言われる車等と違い、昔から住宅は住宅文化とも呼ばれており文化・伝統と直結しているこのことの理解が著しく欠落しているのが主因だと思います。建築職人や伝統工法技術の衰退・ハウスメーカー・住宅産業の巨大化がこれに拍車をかけてきたのではないかとも考えます。

久里屋設計界隈散策−その15 観音寺           2011年9月23日(金)

本堂を前庭から見る
観音寺…名東区上社3丁目地内
 観音寺は当社から南東へ直線距離で約2.3kmの上社3丁目に位置しています。西へ約500mに上社JCT、東へ約500mに名古屋ICがあり地下鉄上社駅と本郷駅の中間の少し南にあり交通の要所の中にあります。主要地方道名古屋長久手線のすぐ南に、昔からある抜け道のすぐ南の崖上の丘にある森の中にあります。境内の西に山門への上り口があり、南東からは本堂への入り口があります。また道路を挟んだ南に墓地があります。萬松山と号し1667年に行基によって十一面観音を祀られたのがこのお寺の始まりだそうです。開山当初は円福寺と呼ばれていましたが平安末期に観音堂が創建されてから万松寺観音寺と呼ばれるようになりました。
観音堂を本堂前庭東から見る
観音堂
右手に本堂、左手に西国観音がある
 現在は臨済宗妙心寺派のお寺で、ご本尊は木像釈迦牟尼如来坐像となっており、別に聖十一面観世音菩薩も本堂西側の観音堂に祀られています。また城東観音二十一番札所にもなっています。本堂前庭には市指定文化財のクロガネモチの大樹が繁っています。この観音寺の辺りに尾張上社城があったと言われておりますが、小高い境内の地形を見れば確かにここに城があったのではないかと思います。この城は1469年に加藤勘三郎信祥によって造られ高針城へ移った後1474年廃城となりましたが、遺構は全くありません。加藤勘三郎姓は世襲され天正年間(1573〜1592)まで存在していたとのこと。加藤勘三郎のお墓は藤森城主小関三五郎と並んで了玄院の墓地にあります。

賃貸住宅見晴台…「ピンチを迎えたか?入居/家賃保証」    2011年9月9日(金)

 最近判ってきたことですが、賃貸住宅量産メーカーが受注するため営業のカードとして使っている入居保証・家賃保証にどうやら異変が起きてきているようです。少し前の新聞発表に某社が何でもかんでも保証するのは止め、選別をしますとの方針が載っていました。また別の某社についても自社で保証していたのを一部他の保証会社に保証させるスタイルを取り始めた【これを“保証飛ばし”と呼び保証会社・不動産仲介業者等に負わせる】との情報を最近になって聞き及びました。
 大手賃貸住宅メーカー等が水面下でこの保証飛ばしをやっていることはもとより知っていましたが、表立ってこんな話が聞こえてくるのはいよいよ彼らも行き詰まってきたのではと言う気が致します。人口減少の社会情勢下で量産メーカー自らが賃貸住宅供給過剰状態を作って自分で自分の首を絞めてしまった結果、保証して受注すること自体オーナー様を翻弄させるだけでなく、自社が非常に危険にさらされることになってきたと言う訳です。自業自得の顛末といわざるを得ません。
 保証契約自体がオーナー様にとって一方的に有利な条件で結ばれることはありえないと言うのはいつもご説明している通りなので、その反面業者側にとっては都合の良いように契約内容を決めてあるケースが多いのではと思います。にもかかわらず、保証をして受注する方法に変化が起きているということはその舞台裏で大変なことが起きてきているのではないかと察せられます。空室が拡大している中、保証が賃貸住宅量産業者自身の経営を圧迫してきているのではと考えられます。
 業者側が保証でピンチになってきたと言うのはオーナー様も決して他人事ではありません。保証書も保証している会社がなくなれば只の紙切れです。2年前に倒産した名古屋地区の最大手賃貸住宅メーカーも保証をしていて多くのオーナー様に犠牲者が出ました。これは保証なんかに頼って賃貸住宅を作ることが如何に危険と隣合せかを象徴しています。供給過剰時代の中賃貸住宅経営を如何に成功させるかは、そんな危なげな保証なんかに頼ること以外の方法を取らなくてはなりません。

久里屋設計界隈散策−その14 貴船社           2011年8月26日(金) 

貴船社参道登り口
貴船社…名東区貴船三丁目地内
 名東区内にある二つの貴船社のうち一つは先にご紹介した貴船神社、もう一つが今回ご紹介する貴船社です。貴船社は当社から南南東へ直線距離で約3kmの位置、貴船公園と貴船小学校の間にあります。貴船社の本殿は南側道路より石段で上がった、かなり高い位置の鎮守の森に囲まれた南側の眺望がよく開けた高台にあります。一社三丁目地内の貴船神社から東へ直線距離で約950m離れたところにあります。武内宿禰(たけのうちすくね)が水不足の折この地で村人に白矢を祀らせたと言われる矢白神社(貴船神社の前身)がどちらであったのかは定かではありません。
参道石段上の拝殿
拝殿
…石段頂上部にあり奥に神殿が続く
 貴船社は1662年(寛文2年)の創建と言われているかつての村社であり、五穀豊穣祈願のため建てられ村人達に大事にされ今日まで至っている。一社の貴船神社と貴船の貴船社の関係はよく判りませんがどちらも水の神様罔象女神(みつはめのかみ)を祀っています。貴船社と言えば京都の貴船神社が有名でこれが全国の総社であり、やはり京都の貴船神社も水の祭神ですが、もう一人の水の神様である高淤加美神(たかおかみのかみ)なので名東区の貴船神社/貴船社とは流れが違うようです。毎年秋祭りの際には無形民族文化財の鷹羽検藤流棒の手が披露されるそうです。

久里屋設計界隈散策−その13 薬師寺           2011年8月12日(金) 

本堂正面を見る
薬師寺…名東区猪子石原一丁目地内
 薬師寺は基幹バスの通っている出来町通りの一本北へ入ったところにあります。ちょうど猪子石西原バス停と猪子石原バス停の真中辺りです。当社からやや西寄りの北へ直線距離で650m行ったところにあり、和示良神社のすぐ南に位置しています。和原山と号し、曹洞宗のお寺でご本尊は薬師如来座像ですが秘仏なので拝観不可。境内にはあまり緑がなく少々殺風景な感がいたしますが、弘化4年(1847年)に古渡町からこの地に移り住んだ恵雲座主が堂主になったのが創建と言われ現本堂は昭和29年に再建されたものです。
釈迦如来と仏足石
釈迦如来座像
 足元にある仏足石はお釈迦様の足跡が刻まれており、あやかれば足腰健全・無事息災になると言われています。この仏足跡を踏んだ人は健脚となり生き抜く勇気が湧いてくるそうです。“ノウマクサンマンダ・ボタナン・バク”と七回唱えて仏足跡に載りご利益を頂くそうです。またこのお寺には御詠歌を奉納する慣わしがあるとのことです。このお寺の西には小さな祠があり、猪子石原の山の神だそうです。西国三十三観世音石像をはじめ、庚申塔や猪子石原に伝わる様々なものがあるとのことです。

24時間換気システムを考える               2011年7月29日(金)

 かなり前から新建材と呼ばれる建材が出始め、これらの材料から出る有害物質によって健康を害する人々が目立ってきました。この現象が次第に社会問題となりクローズアップされてくるようになりました。建築物に使われている建築材料や家具・日用品から発散する化学物質によって、室内空気が汚染されるなどしてめまい・吐き気・頭痛・目やのどの痛み等、居住者への健康被害が近年問題となり、これが「シックハウス症候群」/「シックビル症候群」等と呼ばれています。
 そこで平成15年に定められた建築基準法28条の2/1〜3号(石綿その他の物質の飛散又は発散に対する衛生上の措置)がシックハウス対策に係わる技術的基準です。これは建築物の居室に使用される建築材料や換気設備に関する規制です。規制対象となる化学物質はクロルピリホス・ホルムアルデヒドの二種類でありクロルピリホスは使用禁止でホルムアルデヒドの方はJIS・JASのF☆☆☆☆は規制対象外ですがそれ以下の等級区分のものを使用する場合は使用量の制限・機械換気設備の設置が必要です。
 また対象建材を使わぬ場合でも家具等からの発散があるため原則すべての建築物の居室に機械換気設備の設置を義務付けています。さらに天井裏・小屋裏・床裏・壁・物置のほか、居室に設けられる収納スペース(押入れ・作り付け収納・小屋裏収納・床下収納)等の部分から居室へのホルムアルデヒドの流入についても措置を講ずる必要があります。なお収納スペース等でもドア下のアンダーカット等を設ければ、換気計画上居室と一体化としてみなされ内装仕上げ制限の対象となります。
 機密性の高い建築物等では24時間換気で結露の発生が減ると言う副次効果もあります。しかし、もともと居室の換気については、建築基準法28条(居室の採光・及び換気)2項においてきちんとした規制がかかっており、二重の規制ではないかと思います。さらに時間の経過と共に有害物質が減少することもあります。それに建築主の建設費用負担増大もあり、全く健康被害の出ぬ人については割り切れない気持ちにもなります。その上居室使用者が冬季換気による寒さの為換気装置のスイッチを切ってしまうと言う問題もあります。この規則については何かすっきりしないものを感じます。

久里屋設計界隈散策−その12 神蔵寺           2011年7月15日(金) 

本堂正面を見る
神蔵寺…名東区一社3丁目地内
 神蔵寺は貴船神社のすぐ東隣の敷地にあり、貴船神社に同じく一社3丁目地内にあります。貴船神社同様街中の便利なところにあります。この写真の左手を上がって行くと貴船神社にも通じています。中央の階段を上がったところに山門があり、そこをくぐると境内が拡がっています。高台にありますので境内から山門を通して南方を眺めると亀の井・高間町・神里の街が見下ろせます。寺のすぐ東にあった一色城主である柴田源六勝重が1501年(文亀元年)に建立して創建され、神蔵寺が誕生したとのことですからこの立地環境はうなずけます。なお勝重は柴田勝家の祖父にあたる人で、境内には勝重のお墓があります。
神蔵寺本堂
正面本堂、左手は薬師堂
 神蔵寺は龍華山と号し本尊が聖観世音菩薩の曹洞宗のお寺で、昭和区龍興寺の末寺であり現在は大本山永平寺直末とのこと。草創開山は福厳寺より勧請された雲岫麟棟大和尚で、宝永4年(1707年)には日光菩薩/月光菩薩/十二神将が祀られている。正面に見えるのが本堂で左へ薬師堂・石仏堂と続き、右手奥には庫裏があります。境内の薬師堂には等身大(区内一番の大きさ、弘法大師作と伝承)の石造薬師如来像が安置され、東海49薬師霊場27番札所にもなっています。写真を撮っている位置は山門の辺りからで、この位置の右側に市指定保存樹のクロマツの大木が茂っています。また左側には鐘楼があります。

久里屋設計界隈散策−その11 貴船神社           2011年7月1日(金) 

拝殿を正面より見る
貴船神社
……名東区一社3丁目地内(拝殿)
 貴船神社は当社からやや東寄りの南方約2.3kmに位置しています。地下鉄一社駅より東へ約500m、上社駅より西へ約700m、上社ジャンクションから西へ約400mの位置関係で大変便利な立地条件の街中にあります。県道名古屋長久手線の車窓からはこんもりとした森のように南側によく見えます。また東方約400mには国道302号線・名二環道が南北に走っています。名東区内には二つの貴船社がありますが、一つは貴船町2丁目地内にある貴船社でもう一つがこの貴船神社となっています。江戸時代初期に創建されたと伝えられていますが、雨の神様を祀っています。さらに境内にはこの地域一帯を開発した西一社土地区画整理組合の事業完了記念碑があります。
神殿・拝殿を左手より見る
拝殿に続く神殿
 この地一社・上社等の地名の由来は、かつてこの辺りが社(やしろ)村だったことからきているそうです。日本武尊の父景行天皇の時代(紀元100年頃)参謀武内宿禰(たけのうちすくね)がこの地に立ち寄ったときに、水不足で大変困っておりました。この様子を見た武内宿禰が白鷹の羽で作った矢を与え水の神である罔象女神(みつはめのかみ)を祀るようにと命じられ、村人がこれに従い白矢を祀ったところ水不足が解消され作物も収穫できるようになったとのこと。その神社はいつしか矢白神社と呼ばれるようになり、この地も“やしろ”村となり現在の地名に繋がっているとのことです。その矢白神社が今の貴船神社の前身ではないかとも言われているようです。

香流から見える山々−その7 猿投山            2011年6月17日(金)

猿投山の見える方角
 画面中央に見えるのが猿投山です。猿投山は当社からやや北よりの東へ約16kmに位置しており、山頂は豊田市と瀬戸市のちょうど境にあり標高629mの山です。左に続いているのは三国山の尾根で、右手の近い所に見えている森は明徳公園です。また猿投山の真下は瀬戸市の南のはずれ・愛知郡長久手町の町が拡がっています。猿投山の向こう側には豊田市藤岡飯野町の中心部があり、北〜東方が瑞浪市・恵那市、南方が豊田市中心部へと通じている国道419号線が抜けています。
 猿投山は三河三大霊峰の筆頭として山嶽信仰・自然信仰の対象とされています。三河三社の一つ式内社猿投神社本社が麓にあり、山頂には分社である東宮・西宮があり、この三つを総称して猿投三社と呼んでいます。御祭神は景行天皇の第一皇子である大碓命(オオウスノミコト…熱田神宮の御祭神日本武尊の双子の兄)で、両側に景行天皇・垂仁天皇をお祀りしてあります。大碓命がこの地方を平定し猿投山に登られた折、途中で毒蛇に噛まれ42歳で崩御し葬られたと伝えられています。 
 山名の由来は猿投神社の社蔵文書によれば、景行天皇が伊勢国へ赴いた折かわいがっていた猿が不吉なことを行ったので猿を山上から海に投げ捨て、その猿が当山に籠もって住んだとされていることから、“猿投”と呼ばれるようになったとされています。また「サ」は侠を表し「ナギ」は谷・大崩壊を表し、これが転じて「サナゲ」となったと言う説もあるようです。この他にも「サナギ」は古代の製鉄錬所のあった土地を表す言葉であると言う説とかまだ諸説あるようです。
 三河高原の西端であり愛知高原国定公園にも含まれていて、山頂には一等三角点が設置され東海自然歩道のルートにもなっています。また山頂付近には天然ツガ林が生息しており貴重な植物学上の資源とのこと。山自体の地質は花崗岩が母岩であり、その一種に黒雲母花崗岩(別名・球状花崗岩/菊石)と言う国指定の天然記念物を見ることもできます。南西麓一体の風化土は良質な陶土で、古代・中世の猿投窯址群である約1300基の窯跡が存在しています。

建築業界見晴台…「東日本大地震以降の動向」        2011年6月3日(金)

3月11日(金)に東日本大地震が発生してからほぼ三ヶ月が経過しました。未だに被災地では多くの方が不便を強いられていますし、後片付けや復旧工事もなかなか思うように進んでいないようです。一方全国では地震発生以降建築資材が工事中の現場に入って来ず、工事が遅れてきていると言う話はよく耳にします。これは建築資材の生産現場が被災したことと、被災地の応急仮設住宅工事に資材が優先的に回っていると言うことと、その他の様々な要因が絡み合って起きていると思われます。
 この結果建築を予定していた方が資材不足を見越して建築を見合わせたり、また地震後の経済混乱のためとりあえず様子見を決め込んだ方も多いと聞き及んでいます。とりわけ法人(特に自動車を中心とする製造業)は経済混乱の最中先の見通しが難しくなり、設備投資絡みの建築工事に急ブレーキを掛けたところが多いとも言われています。この傾向は新築工事だけではなく営繕工事にまで影響が及んでいるようで、民間工事の案件や見積りが一段と少なくなっている傾向が続いているようです。
 もともと今回の地震が起きる前も既に民間建築工事がかなり冷え込んでいる状態でしたから、そこへきてこの有様ですので建築業界の不況にさらに追い討ちを掛けるような状況になってしまっています。少なくなった民間工事の争奪戦は激しさを極め、受注単価は震災特需で上がるどころか地震前の厳しい値段のままのようです。金額ベースでピーク時の半分以下の仕事量になってしまっている建設業の淘汰は今までにも増して一段と拍車が掛かってくると思われます。
 しかし設備投資をずっとしないと言う訳には行きません。また次の大地震に備えた耐震化・建替え工事も必要に迫られています。昭和20年代〜30年代の戦後の建築ラッシュの建物がそろそろ解体・建替え時期を迎えつつあると言う時代背景もあります。いつまでも何もしないでじっとしていると言う訳には行きません。続いている建設業者の減少・今後見込まれる建築工事の回復増加は建築費の上昇要因となり得ます。また震災復興の大義名文による消費税・相続税を中心とした大幅増税も今後予想されます。建築する必要性がある方については今正に建築をする時なのかも知れません。

久里屋設計界隈散策−その10 明徳公園          2011年5月20日(金) 

芝生広場より大型遊具を見る
明徳公園
……名東区猪子石/猪高町藤森地内
 明徳公園は当社から東へ約1.5kmに位置している名東区北部の広さ18ヘクタールの公園です。南北約650m、東西約400mでやや南北に細長い形をしており東名高速道路のすぐ西側にあります。また公園からやや南よりの東方約1.1kmには名古屋市東部の交通拠点である地下鉄藤が丘駅があります。公園内西に猪子石コミュニティセンターがありそのすぐ西には水道局猪高配水場・中部電力猪高変電所もあります。長年この辺りに事務所を構えていますが明徳公園に一度も足を踏み入れたことがなく、公園に入ってまずその自然の豊かさに驚きました。街中では信じられないくらいの静けさです。中心部に進んで行くとすっかり森に囲まれてしまい、ここがまるで名古屋市内ではないかのような錯覚をしてしまいます。
明徳池釣り場を見る
明徳池
……すぐ東はマンション等の住宅街
 公園内には野球場・児童球戯場・子供キャンプ場・サッカーコート・フィールドアスレチック風大型遊具・WC等が整備されており、この野球場の下には貯水槽が2槽あるとのことです。また駐車台数はそんなにありませんが駐車場も公園北西側に用意されています。四季を通して鳥・虫・花等の自然を楽しむことができ自然観察のできる貴重な場所です。さらに公園内東には明徳池があり、市民の釣り池としても親しまれています。日曜日だったせいもあるでしょうが撮影した時も太公望が釣竿を垂らして賑わっていました。水際の樹木には大きな野鳥が羽を休ませてじっとしていました。池ではヘラブナが釣れるようです。明徳公園の最高地は海抜72.8m、尾根沿いの遊歩道が整備され里山の雰囲気が漂っています。

久里屋設計界隈散策−その9 藤森神明社           2011年5月6日(金)

本郷公園より一の鳥居を見る
藤森神明社…名東区本郷一丁目地内
 名東区内には二つの神明社があります。先にご紹介した猪子石神明社と今回の藤森神明社です。藤森神明社は藤森地区の氏神様で、当社から東々南へ約2.5kmの名神高速道すぐ西側の本郷一丁目地内にあります。この辺りは藤の花が咲く里であったので藤森の地名もそれに由来しているとのこと。すぐ南側眼下には本郷公園があり、公園から見て真北の方角に鳥居を通して御社のある境内に上がる長い石段が見えます。公園から見ると小高い丘上にこんもり鎮守の木が茂っているのがよく判ります。境内にある由緒書きには貞和3年(1347年)「天照坐大御神社一宇再建」などの棟札があるとされていますが創建年代は不詳です。現在ある社殿は昭和45年に造営されたとのこと。
本殿境内を二の鳥居を通して見る
本殿…奥へ蕃塀・拝殿・神殿と続く
 境内には本殿である神殿・拝殿・渡殿の他に猪子石神明社にもあった英霊社それに蕃塀などがあります。この蕃塀は岡崎市の石工藤田石材(株)により作られたものです。主際神は天照皇大神・豊受大神で他に国常立尊・菊理姫之命・木花開耶姫命・小碓之命・大山祇之命・迦具土之命の六神が祖神として祀られています。またこの辺りに藤森城があったと言われ、神明社から北へ500m程の了玄院にお墓のある小関三五郎が天正年間(1582〜)に築城したとのこと。小牧・長久手の戦いで池田常興軍に属して敗走し、この地に落武者として土着し城を構えたとのことです。しかし天正17年(1589年)三五郎の死去とともに城も廃城してしまったとのことで詳細はよく判りません。

香流から見える山々−その6 恵那山            2011年4月22日(金)

恵那山の見える方角
 中央の白っぽい高圧電線鉄塔の後方に見えるのが恵那山です。当社から東々北へ約64kmに位置していますが、残念ながら多治見市にある標高512m(最高点560m)の深山(みやま)から豊田市/瀬戸市にまたがる標高701mの三国山(みくにやま)の尾根が前方を遮り頂上部しか見えません。深山・三国山はさほど高い山ではないのですが名東区に近すぎて恵那山の姿を隠してしまっています。三国山の手前に標高481mの岩巣山(瀬戸市)があり、これらの山の直下に瀬戸の町が拡がっています。
 恵那山は長野県阿智村と岐阜県中津川市にまたがっている中央アルプス(木曽山脈)最南端の標高が2191mの山で、濃尾平野の各地域からその山容をよく望める美濃の最高峰です。古くは胞山・胞衣山とも書かれまた角度によっては船を伏せたように見えたので船伏山(ふなふせやま)とも呼ばれていました。天照大神がここで降誕され、その胞衣(えな)がこの山に埋められたと吉蘇志略に記載があり山名の由来とされています。日本百名山及び花の百名山に選定されています。
 山頂の最高点の南東には、一等三角点・展望台・恵那神社奥宮神社があります。奈良時代に役小角が開山したとも伝えられ、山頂には修験道に関係の深い七社九柱が祀られています。江戸時代中期〜後期に全国で修験道や信仰登山が流行り、恵那山でも第一次恵那講ブームが起きました。1859年(安政6年)に建てられた下広岡の常夜灯にも恵那大権現の名が刻まれています。また北方の富士見台のほぼ中央を1975年(昭和50年)完成の恵那山トンネル(全長8489m)が通じています。
 胞山県立自然公園の中心で樹木がよく茂る広い国有林があります。山頂までの途中にはドウダンツツジ・シャクナゲの群落があり、また本州中部の亜高山帯林の西限で、コメツガ・シラベ・アオモリトドマツなども見られます。山頂からは濃尾平野・伊勢湾・御嶽山・日本アルプス・白山・伊吹山・鈴鹿連峰が展望できます。JR中央本線中津川駅から中津川渓谷に沿って中腹の黒井沢までバスが通じ、そこから山頂までは徒歩3時間半です。北山麓には馬籠宿と妻籠宿があります。

これは地震雲だったのか?                  2011年4月8日(金)

晴天の青空に現れた帯状雲
松葉交差点から西方の空を見る
 この写真は去る2月18日(金)の午前9時23分頃、名古屋市守山区内松葉の交差点から西の方の空を撮った写真です。会社を出て岩倉市の方へ車を運転中でしたが、折りしも雲が殆どない快晴の空でその異様な雰囲気の雲にすぐに気が付きました。あまりに気味の悪い雲が太くはっきり帯状に伸びていましたので、これが昔本で読んだ地震雲かもと閃き思わず車を止めて降りシャッターを切りました。またその太さからとんでもない大地震が起きるのではないかと不安が過ぎりました。この東海地方では長年東南海地震が言われ続けていますので、いよいよなのかも知れないともふと思いました。一応会社のPCにその画像を入れて保存だけはしたのですが、時間が経つと共にそんなことがあったことも忘れていました。
帯状雲の右方は北東を指す
上写真の雲の右方の続きを見る
 3月11日(金)14時46分に千年に一度と言われるM9.0の東北地方太平洋沖地震が起きてしまいましたが、今からして思えばこの巨大地震の前兆だったのかもとその雲が思い出されます。地震雲は1〜2日前に現れると思っていましたが、実は2〜3週間前から段階的に形の違う雲が現れるらしく初期段階はこの形のようです。4日後の2月22日(火)にはM6.3のニュージーランド地震が発生したのでこの地震の予兆かもと思いましたが、距離も遠いし雲の太さと地震の規模を考えるとやはり今回の地震の予兆だったのではと思われます。この雲は明らかに南西から北東にかけ伸びており今回地震のあった東北地方を指しているようでした。もっとも地震雲の専門家ではありませんのであまり自信のある話ではありませんが…

久里屋設計界隈散策−その8 了玄院            2011年3月25日(金)

南面道路から本堂を見る
了玄院本堂…名東区高柳町地内
 名東区高柳町地内にあり、当社から東へ約2.4kmに位置しており高柳公園と明が丘公園の間にあります。地下鉄藤が丘駅からは西へ約550mの所にあり、すぐ西側を東名高速道路が南北に走っています。南側には藤が丘駅周辺から続いているマンションラッシュ地帯があり、マンションが固まって建っています。境内があまり広くなくまた樹木も少ないので少々殺風景な感じのする曹洞宗のお寺です。創始は文明2年(1470年)であり法名「玄庵道了禅門」を開基とし、開山を東春日井郡大永寺三世明嶽良哲大和尚とし創建されたと言われています。今の地に移る前は現名東区本郷二丁目地内にあったようですが、昭和51年に現在地に改築・移転をされたとのこと。
左手本堂、右手鐘楼塔
西側墓地から本堂を見る
 本堂には弘法大師作と伝えられる「延命子安地蔵菩薩」と呼ばれる地蔵尊が安置されています。安産に霊験があると言われており、安産祈願をする女性や母乳が出にくい女性等が数多く参拝していたようです。境内には藤森地区に伝わる色々なものを見ることができます。「藤森の行者像」が鐘楼塔の西側にあり、昔は地元の農民が日照り続きの際雨乞い祈願をしていたようです。「藤森新田の弘法像」がその横にあり、その他にも「了玄院墓地内にあった六地蔵」や「了玄院の開山塔」等があります。また名東区上社五丁目地内(観音堂から上社公園辺り)にあった上社城の城主加藤勘三郎のお墓も境内にあります。勘三郎のお墓の隣には藤森城主小関三五郎のお墓もあります。

平成20年住宅統計調査から分る賃貸住宅動向−その2    2011年3月11日(金) 

 近年日本国内の犯罪の増加が著しく、住宅防犯の問題が年々重要視されてきています。戸建住宅は勿論のことですが共同住宅については特にお互いに知らない人達が同じ建物に住んでいますので防犯設備の徹底が必要とされています。ピッキング対応シリンダ錠・クレセント破り防止用防犯ガラスも増えてきている現状です。エレベーター内部の設備もドアの一部がガラス張りが全体の25.3%、防犯カメラの設置も全体の22.2%、またこれらの設備以外も含め全く防犯設備のないエレベーターは全体のわずか7.1%しかありません。オートロックのある共同住宅も全体の26.4%にまで増加しています。非木造の賃貸住宅が年々増えているのも遮音性・耐火性・防犯性の点からもうなずけます。
 賃貸住宅入居世帯の主な家計の担い手の34歳までの若年層が5年前の調査に引き続き大きく減少してきています。前回調査の635万世帯(借家全体の37%)から565万世帯(同32%)へと70万世帯も減りました。賃貸住宅の75%を占める民営借家に限れば34歳以下の若年層世帯比率は前回の42%(民営借家全体の)から36%へと大きく減少しています。この先このゾーンの中心帯である団塊ジュニア層が年をとると、本格的に若年人口の減少時代に直面します。少子化の進む中で進学・就職の地元志向も顕著であり、住所移転を伴う人口移動率も低下してきています。これらを総合的に捉えれば賃貸住宅市場の需要後退、特に若年層単身者賃貸の需要減少が強まるでしょう。
 高齢者世帯(65歳以上の世帯員がいる主世帯)は、昭和58年…866万世帯(主世帯全体の25%)、平成5年…1000万世帯超え・平成20年…1820万世帯(同36.7%)で、平成15年時より179万世帯(10.9%)も増加しています。また75歳以上の世帯員がいる主世帯は933万世帯(主世帯の18.8%)になり、急速な高齢化が進んでいます。さらに高齢者単身世帯が414万世帯あり、高齢者世帯全体の22.7%で過去最高の比率です。高齢者のいる夫婦世帯が511万世帯(28.1%)で合わせて925万世帯(50.8%)にもなります。この為高齢者配慮の住宅設備がある住宅は2415万戸となっており、住宅全体の48.7%になっています。高齢者設備とは手すり・高齢者対応の浴室/トイレ/廊下等です。 
 これから賃貸住宅を造る際には若年層減少とその居住傾向をよく考える必要があります。また人口の多い高齢者の持ち家比率は高いのですが将来借家に移る可能性も充分予測されます。しかし今の賃貸住宅にはその備えは充分ではありません。これらの社会情勢の変化を考えると、今までのような安易な考えで業者に乗せられて賃貸住宅を建設することは大変危険です。特に昨今国の相続税増税による不安を駆り立て営業攻勢をかけている広告をよく見かけますので充分ご用心ください。入居保証・借上保証に安心しうかつに乗せられ嵌ってしまうと、税金対策で財産を守るつもりが後々入居がなく逆に財産を相続前に手放すことになりかねません。少子高齢化の中の住宅需要の変化を読み取り、将来に渡って入居不安のない賃貸住宅を熟慮して造らねばなりません。

平成20年住宅統計調査から分る賃貸住宅動向−その1    2011年2月25日(金) 

 総務省統計局の発表によれば平成22年10月1日現在における我が国の総住宅数は5759万戸・総世帯数は4997万世帯…平成15年からの増加数(率)を見ると、それぞれ370万戸(6.9%)・272万世帯(5.8%)となっている。昭和38年以前には総世帯数が総住宅数を上回っていたが、43年に逆転しその後も総住宅数は総世帯数を上回る増加を続けている。平成20年には総住宅数が総世帯数を761万戸上回り、1.15戸/世帯となっている。方や日本の総人口は1億2805万6026人でここ数年ほぼ横ばいです。人口が増えずに世帯数が増えているのは小家族化拡大の影響で、1世帯当たりの平均人数は2.56人となり、未婚化・長寿化で独身世帯・高齢者の単身世帯が増えていると推せられます。
 総住宅数が総世帯数を上回る状況下で「居住世帯のない住宅」は799万戸で全体の13.9%にも及ぶ。このうち純粋に居住世帯のない空き家率は13.1%で、空き家数は昭和33年には36万戸でしたが平成20年には757万戸に膨れ上がっています。問題はその内訳なので「賃貸用の住宅」が413万戸・「売却用の住宅」が35万戸で、それぞれ空き家全体の54.5%・4.6%となっており供給可能な住宅が過半数にも上ることです。また住宅の建て方別では、一戸建が2745万戸住宅全体の55.3%となり、長屋建133万戸で2.7%、共同住宅2068万戸で41.7%、その他13万戸で0.3%です。昭和58年以降一戸建の増加率は住宅全体の増加率を下回り、共同住宅の増加率は一貫して上回っています。
 昭和25年以前に建築された住宅では一戸建が92.8%・長屋建が4.2%と、殆どが一戸建・長屋建であり共同住宅はわずか2.6%でした。昭和26年以降は一戸建・長屋建の占有率が低下し共同住宅のそれが一貫し上昇を続けています。昭和56年〜平成2年では一戸建54.8%・長屋建1.7%・共同住宅43.1%、平成3年〜7年では50.0%・1.4%・48.4%、平成8〜12年では49.0%・1.4%・49.4%、平成13年〜15年では48.8%・1.7%・49.3%、平成16年〜20年9月では47.0%・2.1%・50.7%となり、平成16年以降に建築された住宅は共同住宅の割合が50%以上となっています。専用住宅の借家の規模は持ち家の半分以下ですが、年々少しずつ増え平成20年は平均45.07平米となっています。
 さらに特筆すべきは、共同住宅建築の非木造化の拡大です。一戸建の木造は一戸建全体の92.6%なのですが、共同住宅では非木造が共同住宅全体の86.7%で全く逆転しています。昭和53年以降における住宅全体の割合では、木造は同年の81.7%以降低下し続け平成20年には58.9%となっている。一方非木造は昭和53年の18.3%から平成20年の41.1%まで一貫して上昇しています。これらのことから賃貸住宅が大量に余ってきていること(主因は量産メーカー・量産型タイプの乱造と思われる)、また木造の賃貸住宅が減ってきていると言うこと、また賃貸住宅の占有面積も少しずつ増えており、また居住世帯も新世帯(独身・高齢者中心世帯)時代になりつつあること等が分ってきます。

久里屋設計界隈散策−その7 香流川            2011年2月11日(金)

新屋敷橋より下流(西方)を見る
香流川…新屋敷橋よりの景色
 香流川(カナレガワ)は当社から北へ約300mくらいの所を東から西へ流れている庄内川水系の一級河川です。源流は長久手町大字岩作字三ケ峯にあり、名東区に入ってから藤ノ木川が合流し河口(合流先)は名古屋市千種区竹越一丁目と香流橋一丁目の境にあります。そこで矢田川に合流しその流量は矢田川の約1/4あるそうです。上流の長久手町内では散策コースが整備され、夏前には蛍そして冬には鴨等の渡り鳥も飛来し豊かな自然の流れとなっています。また愛知万博開催時には香流川に沿って自転車で会場まで行くことができました。下流の名東区内では両岸に500本以上の桜並木が約2kmに渡って続き春満開時には毎年桜祭りが開かれています。
新屋敷橋東の香流川緑道
香流川緑道
……緑陰の下、人々の憩いの場
 名東区内の橋の上から見下ろすと大きな鯉や亀が泳いでおり、また冬季には鴨等の渡り鳥も見られます。ずいぶん以前には蛍を見た記憶がかすかにありますが、最近では一度も見たことはありません。香流川の名前の由来は諸説紛紛、どれが本当なのかよく判りません。其の内のいくつかをご紹介しますと?流域で選鉱が行われていたことから「金連川/金流川」(カナレガワ)と呼ばれるようになった。?応仁の乱時に兵火で焼け落ちた権道寺の焼けくずを川に投げた所、以来香の香が漂いその香源を訪ねたら黄金の仏像が現われた。?猪に追われた親孝行の娘が祈ると川の流れが大きくなり猪が渡れなくなり助かった。…等々の言われが伝わっています。

久里屋設計界隈散策−その6 明徳寺            2011年1月28日(金)

石段上の山門を見る
明徳寺…名東区陸前町地内
 明徳寺(みょうとくじ)は正盹山と号し、当社より南南東へ直線距離で約3kmの国道302号線陸前町交差点を東へ入ってすぐの名東区陸前町地内の小高い丘上にあります。浄土真宗高田派のお寺でご本尊は阿弥陀如来、創建は明徳2年(1391年)と言われています。また本堂左手には地蔵信仰の木造十王像(市指定民俗文化財)が安置されている十王堂があります。十王像は地蔵菩薩など合わせて十三体あり、太平洋戦争時にお堂が空襲に遭ったのですが十王像は焼け残り無事だったそうです。毎年8月24日にはお祭りがあり、お囃子と盆踊りで賑わっています。この地は昔は下社村と呼ばれていた所で、山門手前右側には下社城址/左側には柴田勝家公誕生地の石碑が建てられています。下社城は柴田勝家が居を構えていた城です。
山門奥の本堂
本堂
……右手に庫裏、左手に鐘楼がある
 城と言っても東方以外が小高く盛り上がった地形で、その広さも考え合わせれば天守閣のあるような城ではなく、西南方に睨みの効くこじんまりした砦だったと推せられます。瓶割り柴田の勇名を取る柴田勝家は大永2年(1522年)尾張国愛知郡上社村生まれで、幼少の頃は権六(ごんろく)と呼ばれ若い頃から織田信秀に仕え信秀死去の後はその子信行(信勝)の家老となりました。信勝が兄信長の排除に失敗し自刃した後は信長の家臣となり、その後信長の筆頭家老として活躍し天正3年(1575年)より越前北庄にて北陸の総管となりました。本能寺の変の後の清洲会議で策謀家羽柴秀吉に立場を奪われ、その後の賎ケ岳の戦いで敗れ天正11年(1583年)4月24日北庄城落城にてお市の方と共に自刃し、享年62歳でこの世を去りました。

香流から見える山々−その5 中央アルプス・南アルプス        2011年1月14日(金)

中央アルプス・南アルプスの見える方角
 正面に固まって見えるのは市営住宅引山荘群、その右方に市営住宅香流荘群が見えています。その後方は多治見から瀬戸へかけての山々でその後方に冠雪して見えるのが中央アルプス・南アルプスの山々です。識別しにくいのですが左手の方の高くなっている部分が中央アルプスの山々、中央部分が南アルプスの山々だと思われます。中央アルプスの主峰木曽駒ケ岳までは当社から東々北へ直線距離で約100km、山脈の北峰駒ケ岳から南峰恵那山(恵那山は写真右枠外)までは直線距離で約43kmです。南アルプスの最高峰北岳まで当社からの直線距離は約130kmです。
 木曽駒ケ岳は日本百名山/新日本百名山/花の百名山の一つで長野県上松町・木曽町・宮田村に跨る標高2956mの山で本岳・中岳・前岳の三つの総称、伊那谷と木曽谷に挟まれた南北約90kmの中央アルプス山脈の北端部にある最高峰です。木曾駒ケ岳山頂からは、御嶽山・乗鞍岳・穂高岳・八ヶ岳・南アルプスなどの360°のパノラマ眺望をみることができる。また北岳を最高峰とする南アルプスは長野県・山梨県・静岡県に跨がる3000m級の山々で赤石山脈とも呼ばれており、飛騨山脈・木曽山脈と共に総称して日本アルプスとも呼ばれています。
 中央アルプスの主な山としては駒ケ岳2956m・宝剣岳2931m・桧尾岳2728m・空木岳2864m・南駒ケ岳2841m越百山2613m等がある。千畳敷カール・濃ガ池カールには高山植物のお花畑があり、山頂付近にはエーデルワイスの仲間のコマウスユキソウの駒ケ岳の固有種が自生している。また亜高山帯から高山帯にかけて、ニホンカモシカ・ノウサギ・キツネ・イワヒバリ等が生息している。日本百名山の一つですが昭和42年に伊那谷側から標高2613mの千畳敷までロープウエーが開通しており、誰でもが一気に高山帯へ登れる大衆的な山となっています。
 南アルプスの主な山としては、西側稜線に仙丈ケ岳3033m・塩見岳3052m・荒川岳3141m・赤石岳3120m・聖岳3013m、東側稜線に北岳3193m・中白根山3055m・間ノ岳3189m・西農鳥岳3051m・農鳥岳3025m等が連なっている。諏訪湖を頂点とし、東では釜無川と富士川、西では天竜川に挟まれた山地です。南アルプスは新しく隆起した山であるため侵食があまり進んでいないので比較的なだらかな山容の山が多い。北岳・仙丈ケ岳・北荒川岳・三伏峠・中岳等に非常に大規模なお花畑があり、北岳の山頂直下には固有種のキタダケソウが自生しています。

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