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ブログ−2015年

建築業界見晴台…「この一年を振り返る」       2015年12月25日(金)

 アベノミクスが引き金である建設業の職人不足がもたらした建築工事費高騰がこの先も続くかどうか怪しくなってきたようです。建築工事費高騰の煽りで来年度の一般民間建築需要の冷え込みが依然強く需要動向が思わしくないとの情報が日増しに多く聞かれるようになってきました。職人不足の象徴とされた型枠工事や鉄筋工事も手が空いてきたとの声も聞かれ、設備工事業者も以前の忙しさではなくなってきているようです。世界的資源デフレで建築資材も下落の兆候になってきました。
 昨年の今頃も同じような話(平成27年度春に需要が冷え込む予測)が起きていましたが、実際に今年度に入ってからは意外にも様々な要因が重なった為か建築業界は忙しさが続いてきました。昨年の思惑が的中しなかったのは、消費税が5%から8%に上がる前から起きているいわゆる駆込み需要が8%になって以降も依然続いている(10%になる前に実施)のと、アベノミクスを支える為の公共投資の増大が留まらないのと日本社会の現実を無視したいびつな経済政策が大きな要因だと思われます。 
 しかし今年のような一般民間需要の落ち込みを救ってくれるような救世主はもう現われない気がします。消費税が10%になる前にと余裕のある企業が設備投資をし続けてきたのも消費税10%を目前にしてそろそろピークダウンとなりそうです。またインフレ政策を支える借金頼みの公共投資も息切れの様相です。また諸外国の発展に依存する外需頼みの景気回復や国内型産業・国民生活の軽視と言ったいびつな経済政策を強行するためのさまざまなごまかしもそろそろメッキが剥がれそうです。 
 とうとう人口減少が始まってしまいました。国民(庶民)の暮らしを軽視し続けてきた結果が少子高齢化と言う社会現象となって表れてきたのです。今の建築業界のような人の足元を見て値段を吊り上げるようなやり方は納得できませんが、この人口減少下でもはや人手不足は建設業だけの問題ではなく日本国全体のすべての分野で発生しているようです。人口が減って行く日本ではこれまでやってきた社会や経済では成り立ちません。今こそ国民(庶民)の暮らしを守る大胆な改革が必要です。

久里屋設計界隈散策−その89 地下鉄上社駅    2015年12月11日(金)

ターミナルビル吹き抜けの向こうの駅北出入口
上社駅北側出入口
……名東区上社一丁目地内
 地下鉄上社駅は当社から南東へ約2.2km離れた名東区上社一丁目地内にあります。以前ご紹介した上社ジャンクションから300mと目と鼻の先にあり、また県道名古屋長久手線(東山通)から100mほど北へ入ったところに位置しています。昭和45年(1970年)12月10日に開業し駅番号がH20の東山線の高架駅です。一つ西側にある一社駅までは線路が地下を走っていますが一社駅と上社駅の間の名東区社台三丁目地内(上社ジャンクション西)で電車は地上へ現われ終点の藤が丘駅まで高架上の線路を走行しています。地下鉄なのに高架を走るなんて何か不思議な感じがします。
上社駅南出入口を西から見る
上社駅南側出入口
……南側市道より入る
 地上の高架部分を走る地下鉄の駅なので上社駅は高架上にあり、階段・エレベーター・エスカレーター等でプラットホームへ昇降するようになっています。また駅北出入口側のターミナルビルの一階部分に市バスターミナルが隣接して設置されています。駅舎は上社ターミナルビルの南側に接して造られていて北出入口と南出入口があります。ターミナルビルには名東文化小劇場・上社レクリエーションルーム・市バスターミナル・テナントスペースが設けられており、上部には市営住宅も用意されております。上社駅の一日乗車人員は11,416人(2010年度)となっています。

久里屋設計界隈散策−その88 名東区役所     2015年11月27日(金)

区役所機能・講堂・保健所が入っている
名東区役所
……名東区上社二丁目地内
 名東区役所は当社から南東へ約2.5km離れた名東区上社二丁目地内にあり、名東保健所も一緒の建物にあり社会福祉事務所が同一敷地内の別棟にあります。県道名古屋長久手線(東山線)より北へ約180m入った所で、地下鉄本郷駅より西へ徒歩4分くらいです。東名高速道路名古屋ICから約800m西々北に位置しています。名東区は昭和50年(1975年)2月に千種区から独立して誕生した区です。昔はのどかな田園地帯でしたが大規模な土地区画整理・地下鉄延伸・高速道路整備などにより大きく街が変わってきました。平成17年の愛知万博開催に伴い万博会場へのアクセスのためリニアモーターカーが導入され東部丘陵線(愛称リニモ)の駅が地下鉄藤が丘駅横にできました。
福祉関係の機関が入っている
 社会福祉事務所…敷地東側にある
 名東区の面積は19.45平方km、人口は164,139人(2015年5月1日現在)で人口密度は8,440人/平方kmとなっています。名東区の大部分は昔の東春日井郡猪子石原村・愛知郡猪子石村・上社村・一色村・下社村・高針村だったそうで、矢田川水系の北部と天白川水系の南部に分かれ主要交通路は北部が山口街道・南部が中馬街道でした。起伏の多い乾燥した土地であったため農業用にため池が150箇所も作られていたそうです。牧野ケ池はその内の最大の池で正保三年(1646年)春に完成したものです。名東区のシンボルマークは名東区の「め」の字からデザインされ、人の和と名古屋インターチェンジのイメージだそうです。区の花はナデシコで区の木はケヤキとなっています。

久里屋設計界隈散策−その87 大森寺        2015年11月13日(金)

南市道反対側より正門を見る
  大森寺…守山区弁天が丘地内
 大森寺は当社からほぼ北へ約2.4km離れた守山区弁天が丘地内にあり、名鉄瀬戸線大森・金城学院前駅から徒歩2分のすぐ北側に境内入口があります。境内北側には名古屋市住宅供給公社が建てた大森台住宅(共同住宅)があり、その西に金城学院大学/東に守山環境事業所があります。前にご紹介した上野村酉新田(現千種区田代町岩谷辺り)の耕作地が元禄3年(1690年)に寺領として寄付されたのがこのお寺です。寛永11年(1634年)徳川光友の生母乾(いぬい)の方が江戸で亡くなり、寛永14年(1637年)小石川伝通院内に一寺を築き観喜院と称したのが創建由来です。開山は信誉上人で興旧山と号し宗派は浄土宗となっています。
参道左手に山門を見る
 山門…以前の位置から移設された
 その後、光友が尾張藩二代藩主になってから寛文元年(1661年)に乾の方の出身地であったこの大森の地に院を移し大森寺(ダイシンジ)と称しました。乾の方は尾張藩初代藩主義直公が狩猟の折この大森村を通ったとき麦をついていたのであわてて麦を入れたままの臼を小屋に入れたり、また父の行水中にたらいを両手で入れるなどを見てその怪力に驚嘆し藩邸に入れたとのエピソードがあります。残念なことに明治8年(1875年)の火災で創建以来の建物は焼失し2014年に本堂が再建されました。しかし本尊は無事であり、また山門には光友自筆の興旧山の山号額がかけられています。裏山の墓地内に乾の方のお墓があるとのこと。

久里屋設計界隈散策−その86 蝮ケ池龍神社    2015年10月30日(金)

社入口を東側道路より見る
蝮ケ池龍神社
……千種区池下町二丁目地内
 蝮ケ池龍神社は当社から西々南へ約4.6kmの千種区池下町二丁目地内の鋭角状の狭い土地にあります。地下鉄池下駅の北側で徒歩3分と便利な場所にあり、すぐ東側には古川美術館もあります。昔あった蝮ケ池は万治年間(1658年〜1660年)にこの地を開拓した人達によって築造され、当寺は夏にもなると蝮が多く見られたそうでこの名がつけられたそうです。天明年間(1781年〜1788年)に兼松源蔵・小塚源兵衛ら庄屋によって堤を築く等のかさ上げ拡張工事もしているとのこと。
鳥居を潜ってすぐの本殿(周りが池)
  小さな社殿…龍神社・辯天社
 この辺り一帯(現在の地下鉄池下駅〜元愛知厚生年金会館周辺)にあった蝮ケ池を大正10年(1921年)に発足した千種耕地整理組合の工事で埋め立てなくしてしまいました。しかしこの工事中に交通局職員・工事関係者の事故が相ついだり、また工事責任者の矢口眞之助氏が三日三晩うなされ続くなどの異変が起きたとのこと。このため水の神様である龍神様を池の底だったこの地に祀り、その際水に縁ある辯天社(市杵島姫命)も合祀したのがこの蝮ケ池龍神社の創建由来であるとのこと。

久里屋設計設計界隈散策−その85 蝮ケ池八幡宮  2015年10月16日(金)

バス通りの東側にある入口
蝮ケ池八幡宮
……千種区向陽一丁目地内
 蝮ケ池八幡宮は当社から西々南へ約4.5kmの千種区向陽一丁目地内にあります。お社入口は市バス高見バス亭で降りてすぐの所にあり、境内はその奥の東側に拡がっています。また地下鉄池下駅から北へ徒歩6分くらいの位置です。昔はこの地に蝮ケ池と言う池があったのでこの名が付いています。池は南北212m・東西108m・面積六千坪、周囲約950mの大きなもので鮒や鰻がたくさん取れたとのこと。古井村一帯の灌漑用水として作られましたが埋め立てられ今はありません。
拝殿を通して本殿を見る
拝殿・本殿…石段を登ってすぐ左手
 お社は第109代明正天皇時代(1629年〜1642年)にこの辺りの農地(名古屋新田)を支配していた兼松源蔵が京都の石清水八幡宮の分霊を勧請し西八幡社の地に祀ったのが始まりで後に今の場所に移ったとのこと。昭和20年6月26日の米軍空襲で社殿を焼失、昭和26年10月21日に氏子崇敬者により再建され今日に至っているとのこと。昭和35年には渡殿・神楽殿などを造営。御祭神は誉田別命(ホンダワケノミコト/第15代応神天皇)で境内末社に秋葉社・須佐之男社・州原社があります。

久里屋設計界隈散策−その84 東山給水塔      2015年10月2日(金)

給水塔を西側より見上げる
東山給水塔
……千種区田代町四観音通西地内
 東山給水塔は当社から西々南へ約3.7km離れた千種区田代町四観音通西地内にあり日泰寺のすぐ北側に建っています。姫ケ池通(県道関田名古屋線)に面していて通り西側に敷地があります。給水塔なので当然でしょうがこの辺り一帯で最も高いところにありますので遠くからでもよく見えます。またネギボウズのような一風変わった屋根の形も相まってこれを知らない人はまずいないと思います。給水塔は昭和5年(1930年)3月に建設され(当初はトンガリ屋根なし)昭和48年(1973年)まで43年間覚王山一帯の高台に給水する給水塔として活躍してきました。昭和54年からは災害対策用の応急給水施設に改造され、昭和58年には展望スペースが設けられ市民に開放されています。
新甫町三丁目方面から配水場を見る
東山配水場付属施設
……給水塔西北にある
 給水塔の北西にあるこの建物はその造りから給水塔建設当初に建てられたのではないかと思いますが給水のための何かの付属施設ではないでしょうか。名古屋の水道水は犬山市内の木曽川にある第2取水口から取水し犬山圧送ポンプ所へ2本のトンネルで送られ春日井市を経由し鍋谷上野浄水場に至っています。浄水場で濾過後の水をこの東山配水池に揚水し自然流下で各家庭に配水していたとのこと。給水塔は鉄筋コンクリート造で高さ37.85m(標高85.15m)で頂上部にあるタンクは容量300立米/直径8.4mとなっています。またタンクの周りに造られている展望台の?さは27m(標高74.3m)です。配水場の一般開放日は3月春分の日と8月1日(水の日)の2回となっています。

久里屋設計設計界隈散策−その83 山神社      2015年9月18日(金)

南市道より境内を見る
山神社入口…千種区田代町岩谷地内
 山(ヤマまたはサン)神社は当社から西西南へ約4.0km離れたところ、先回ご紹介した日泰寺境内の西方200mにあります。山神社は「山ノ神」を祀っているお社で全国各地に見られますがこれはその内の一つ。ご祭神は他の山神社と同じ大山津見神(オオヤマツミノカミ)とのこと。この辺は昔は上野村酉新田(トリシンデン)と呼ばれ起伏の多い丘陵地で山林の間の傾斜地に畑が拡がっていたそうで十三町(13ヘクタール)くらいの広さであったとのこと。この畑を耕していた農家の人々が祀った山ノ神が山神社の起源だそうです。
南から拝殿・本殿を見る
拝殿・本殿…鳥居潜ってすぐ正面
 寛文元年(1661年)尾張徳川二代藩主光友は生母歓喜院乾の方のため春日井郡大森村(現守山区)に寺領二百石の大森寺(ダイシンジ)を建立。元禄三年(1690年)さらに百石の寺領を寄付、その内の六十九石余がこの上野村酉新田の土地であったとのこと。山神社のすぐ北方に昔は新甫池・鉄砲坂池があったそうでこの水を耕作に利用していたのではと推察されます。今現在は千種児童館/生涯学習センターや千種税務署が建っている辺りだと思います。なお拝殿・本殿は木造で造られており大分年月が経過(江戸時代?)しているようです。

久里屋設計界隈散策−その82 日泰寺           2015年9月4日(金)

昭和61年(1986年)竣工・鉄筋コンクリート造、左側に迦葉尊者像/右側に阿難尊者像
日泰寺山門
……千種区法王町一丁目地内
 日泰寺は当社から西西南へ約3.8km離れていて、地下鉄覚王山駅で降り北へ約500mの参道を歩いた突き当りにあります。昔から毎月21日は弘法様と呼ばれる縁日が催されていて今でも賑わっています。明治33年シャム(現タイ国)の国王から贈られた釈迦の舎利を安置するために、明治37年(1904年)11月に建立されたのが起源です。当初は日本とシャム両国の名から取って日暹寺(ニッセンジ)と呼ばれていて山号を覚王山と号しその誕生起源から超宗派の寺院となっています。またその山号「覚王山」からお寺付近を覚王山と呼ぶようになったとのこと。千年以上前に作られたシャム王室寺院伝来の釈尊像(金銅の裸体に袈裟をかけた等身大の座像)が本堂に安置されています。
昭和59年(1984年)竣工・鉄筋コンクリート造、正面頭上にプミポン国王の勅額「釈迦牟尼仏」がある
日泰寺本堂
……ご本尊は金銅釈迦如来像
 明治31年(1898年)当時イギリス領インドのピプラーワーの地ルンビニエンの西南20kmの小丘を発掘中にイギリス人が石櫃を掘り当て、その中にあった仏舎利の壺に釈尊の舎利であると古代文字で書かれていた。翌年インド政府はこれを佛教国シャム国王室へ寄贈、さらに国王チュラロンコンがセイロン・ビルマ・日本の三国の仏教徒へと少しずつ贈ったのが日泰寺の起源です。伽藍は山門/本堂/奉安塔/鐘楼/五重塔/普門閣/鳳凰台/香積台/茶室「草結庵」などがあり、仏舎利は大正7年(1918年)に建てられたガンダーラ様式を模した奉安塔に安置してあります。また昭和62年(1987年)には日タイ修好百周年記念としてチュラロンコン国王の立像が本堂左手前に設置された。

賃貸住宅見晴台…急減続く新築RC造賃貸住宅   2015年8月21日(金)

 アベノミクスが言われ始めてから建築工事費が急騰したまま一向に下がる気配がありません。その前までは東北の震災復興による建築工事費への影響はまだまだ本格化していなかったのでそれほど大きな上昇はありませんでした。しかしアベノミクスによる消費税増税政策実施のためのインフレ目標政策や円安誘導政策、これらを支える公共工事の前倒し発注・消費税増税路線の影響による企業の駈込み設備投資や東京オリンピック誘致まで繰り出し職人不足を見る見る内に煽って行きました。
 近年若者の職人離れと職人の高齢化が拡がり職人の絶対数が減少してきていました。そしてリーマンショックによる影響で建設業離れに拍車がかかりました。そんなところへ政府による不用意な建設需要の増大が主に型枠大工・鉄筋工の確保を難しくし他の職種の職人不足へも飛び火して行きました。建設業お荷物論まで発してそんなに雇用を維持する必要はないと言っておきながら、口先が乾くか乾かないうちに不用意に建設需要を煽るなんて何を考えているのかさっぱり理解できません。
 消費税増税・円安の影響で諸物価が上がっている最中ですが、これらの物価高をも尻目に突出した建築工事費の上昇をもたらしました。RC造・S造はアベノミクス前の建築工事費の1.4〜1.5倍もの値段になっています。諸物価が上がっても一般消費者の賃金は上がっておらず国内消費は低迷状態を脱せません。当然のことですが、理由が如何にせよ極端に上がった建築工事にも一般の国民はそっぽを向いてしまいました。その結果RC造の賃貸住宅を建てる人がめっきり減ってしまいました。
 今年一月から相続税が厳しくなり、これに呼応するかのように量産系(木造・軽量鉄骨造系)の賃貸住宅の着工が(戸建住宅の着工減少とは裏腹に)増えています。経験豊富なベテランのオーナーさんは苦い体験もありますのでそううまい話には簡単にひっかかりませんでした。しかし相続により世代交代した未経験の地主さんが増えていますのでうまい話に乗せられているのでは…ますます量産系の賃貸住宅が供給過剰となり反面非量産系の築浅RC造賃貸住宅が不足した状態が拡がっています。 

久里屋設計界隈散策−その81 桃厳寺           2015年8月7日(金)

四谷通から山門方向を見る
 桃厳寺…千種区四谷通二丁目地内
 桃厳寺(トウガンジ)は曹洞宗の寺院で当社から西南へ約3.8km離れた千種区四谷通二丁目地内にあり別称東山辯天とも呼ばれています。境内西側の四谷通(山手グリーンロード)に正面入口がありその奥に山門があります。境内北側の市道に通用口があり通路右手に緑色の大仏様(座高約10m/昭和62年建立)の背中が見えます。本堂は中央西側に建っています。斯波氏三奉行の一人勝幡城主織田信秀公の菩提寺です。恵心僧都作の聖観世音菩薩を本尊とし信秀が所有していたと伝わる辯天画像や竹生島から勧進した十五童子像を守護神として祀っている。裸辯天・歓喜仏・日本一とも言われる直径1mの木魚などで知られ、年に2回開帳される「ねむり辯天」も有名とのこと。
本堂正面を東から見る
本堂…木造建築物、方杖で柱補強
 最初は末森城主織田信行公が父信秀の菩提を弔う為に末森村二本松(現穂波町)に当寺を創建。後に再興して正徳4年(1714年)に現在地に移転したとのこと。開山は快翁玄俊で泉龍山と号し寺号は信秀の法名「桃厳道大禅定門」からきているとのこと。天文18年(1549年)3月3日信秀病死後、信行は兄信長に陰謀を企て弘治2年(1556年)に柴田勝家・林通勝/通具を従え稲生ヶ原合戦を起こしたが合戦に惨敗を喫し、翌年信行は兄信長によって清州城内で謀殺され末森城西北山麓の廟山に葬られた。後にこの廟山も桃厳寺に移され今は父子共に当寺に祀られています。信秀の廟山は大須万松寺平和公園墓地内にもありまた月見坂地内にもあったらしいが何れも真相は不明とのこと。 

久里屋設計界隈散策−その80 旧昭和塾堂      2015年7月24日(金)

正面玄関のある八角堂部分を見る
旧昭和塾堂…千種区城山二丁目地内
 旧昭和塾堂は先にご紹介した城山神社の境内の一角にあり千種区城山二丁目地内にあります。何の建物か知らない人が多いでしょうが丘上にありまた昔からこの辺り一帯から変わった屋根が見えるので見たことがない人はいないと思います。もともと県が青年会(青年団)の精神修養の場として昭和4年(1929年)3月に建設し青年団・婦人会・修養団体等が利用していて、昭和6年(1931年)2月には付属体育館も建設され今は武道場「養心殿」となっています。戦時中は陸軍(いかり部隊)や東海軍司令部として、戦後は名古屋大学医学部〜県教育文化研究所〜千種区仮庁舎として転用された後城山神社へ払い下げられ、今は愛知学院大学大学院歯学部研究棟として利用されています。
西翼棟を西側眼下より見上げる
西翼棟(食堂部)
……SRC造2階建部分
 昭和塾堂の設計は愛知県営繕課によるもので、酒井勝氏の下で安藤武郎主任が担当し黒川巳喜氏(黒川紀章氏の父君)が意匠を担当したとのこと。中心にある八角堂部は望楼風になっていて地域のランドマークにもなっています。中央塔状部から三方へ鴟尾付き入母屋屋根二層の翼棟部が延びており「人」文字を表しているそうです。八角堂部RC造/翼棟部SRC造の混構造となっているとのことです。40年位前は緑青の出た銅板葺き屋根がきれいでしたが残念なことに今は銅板がむくれ上がりひどい状態になっています。当時財政難で難しかった昭和塾堂の建設は寄付金募集の条件付で議会決定したそうです。しかるに建設費16万円のうち4万円が寄付金で賄われたとのこと。

久里屋設計界隈散策−その79 城山神社        2015年7月10日(金)

城山神社入り口の鳥居
城山神社…千種区城山町二丁目地内
 城山神社は当社から西南へ約3.7km離れた丘の上にあり、ここから北へ続く丘陵地帯には6世紀半頃と推定されている「城山古墳群」があります。天文22年(1553年)末森城主織田信行公が加賀一ノ宮白山比?神社の分霊を迎え白山社として祭ったのが始まりです。もともと社は今の場所よりもう少し東北の地(現春里町二丁目南端)に鎮座していたが、明治期に村内にあった浅間社・山神社・一の御前社・白山社を合祀した後、昭和11年今の城山(末森城址)に遷座されたとのこと。ご祭神は譽田別命(ホンダワケノミコト)・息長帯比賣命(オキナガタラシヒメノミコト)・帯中津日子命(タラシナカツヒコノミコト)です。また本殿裏手には良縁祈願の御神木『連理木』があります。
拝殿へ続く参道、右手が末森城本丸跡
  神門の奥に拝殿・本殿を望む
 末森城は天文16年(1547年)織田信長公の父織田備後守信秀公が三河の松平清康・駿河の今川義元への守りを固めるため、三方が急な斜面に囲まれた要害の地この城山に築城し古渡城より移ったとのこと。標高43mの城域は東西約200m・南北約160m・麓から約20mの高さがあり、二十堀をめぐらした複雑な遺構が残っているとのこと。天文18年信秀公は大志を抱きながらも病に倒れ卒去しました。末森城は信秀公没後信長弟の信行が主となったが永禄元年(1558年)信行が信長に謀殺されてから廃城となったとのこと。城址の西北山麓に信行公の廟山があったが、いまは信行公自身が父信秀の菩提を弔うため建立した桃巌寺(千種区四谷通)に移され父と共に祀られています。

久里屋設計界隈散策−その78 正法寺          2015年6月26日(金)

山門入口を北側道路より見る
 正法寺…千種区城山町一丁目地内
 正法寺(ショウホウジ)は当社から西南へ約3.7kmの千種区城山町一丁目地内にあり、先にご紹介した善篤寺の東隣の敷地です。黄梅山と号し曹洞宗のお寺で、佐治タイル創始者佐治春蔵の娘すず子が父の死を悼み得度して昭和12年(1937年)に建立したお寺。すず子の没後昭和22年(1947年)に「第一尼学林」がこの境内で移転再興され寄宿舎・校舎等が造られたとのこと。昭和26年(1951年)に愛知専門尼僧堂となり、昭和45年(1970年)には特別尼僧堂が設置されたとのこと。
本堂を境内中央より見る
本堂…山門を潜ってすぐ右手にある
 尼学林は明治36年(1903年)東春日井郡高蔵寺村気噴に創立され大正元年(1912年)に北区柳原に移転したが、昭和20年5月14日の米軍による空襲で灰塵と帰し乾徳寺に仮偶していたとのこと。境内には本堂・僧堂・鐘楼堂・写経塔などがあり山門を潜った右手には短い長さですが瓦積土塀が築かれ、また少し歩くと左手には六角形の鐘楼堂もあり都会の雑踏を忘れてしまうような静寂とした風情が漂っています。ここで修業が行われていると言う何か凛とした空気も伝わってきます。

久里屋設計界隈散策−その77 善篤寺          2015年6月12日(金)

山門のすぐ左手にRC造の本堂が見える
善篤寺山門…千種区城山一丁目地内
 善篤寺は当社から西々南へ約3.7kmの千種区城山町一丁目地内にあり、先にご紹介した相応寺の道を挟んだ東側にあります。この写真はこの二寺の前の通りから撮ったもので山門だけが清州越し当初に造られたものだそうです。山門を潜って進んで行くと正面に庫裡があり振り返って左手に本堂が建っています。本堂は比較的新しく昭和56年(1981年)に再建されたそうですが、モダンなデザインの鉄筋コンクリート造で何か少し残念な気がします。庫裡は木造ですが老朽化していて鉄骨で倒壊しないように補強がしてありました。
今風の現代デザインのRC造本堂
善篤寺本堂
……再建されたモダンなRC造
 曹洞宗の寺院で小牧正眼寺の末寺とのこと。もともとは岐阜県竹ケ鼻村にあって菩提寺と号する浄土真宗のお寺だったそうですが、文亀2年(1502年)大倫東寅と正眼寺八世宣叟とが話し合い正眼寺の末寺として今の名に改めたとのこと。天文年間(1532年〜1555年)尾張清州へ移されたのですが、清州越しの際に中区門前町五丁目の東側に移転したとのこと。末寺14ケ寺を有していたのですが安永5年(1776年)山門以外は全て焼失、天明4年(1784年)に再建され昭和16年(1941年)に都市計画のためこの地へ移転してきたとのこと。

久里屋設計界隈散策−その76 相応寺          2015年5月29日(金)

境内北側道路より山門を見る
 相応寺…千種区城山町一丁目地内
 相応寺は当社から西々南へ約3.7kmの千種区城山町一丁目地内にあり、姫池通(県道関田名古屋線)から東へ入ってすぐのところです。宝亀山と号し浄土宗鎮西派のお寺で、寛永20年(1643年)尾張藩祖徳川義直公が生母相応院おかめの方の菩提のため建立したもので境内に相応院の墓碑があります。最初は12000坪の境域で古井村(現在の東区山口町)に眼誉呑屋上人が開山しましたが、現在地に大正年代移築されたとのこと。山門額・本堂額はともに義直公直筆のものとのこと。慶安3年(1650年)義直公江戸邸にて没した後遺骨をこの寺で供養してから定光寺に葬ったとのこと。
総門を潜り本堂を西南より見る
 本堂…寛永20年創建当時のもの
 義直公の母は、山城国石清水八幡宮の祠官-清水(志水)宗清の娘で名を於かめ(亀)と称した。はじめは竹腰光昌に嫁し一子正信を産んだ後離別、幼児を生家に托し徳川家康の侍女となり家康の寵愛を受け仙千代と義直(共に伏見城で誕生する)を産んだ。この正信は後に美濃今尾三万石の領主となり尾張家に属し国家老の職となった。またその弟志水忠宗も尾張藩の重臣にとりたてられたとのこと。於かめの方は家康没後剃髪し相応院と称し元和2年(1617年)名古屋城二の丸御殿に住まいしが後江戸に戻り寛永19年9月16日(1642年)江戸城内にて享年70歳にて没したとのことです。

建築業界見晴台…「聞こえてきた建築業変調の兆し」  2015年5月15日(金)

 いまだに建築請負単価が高止まりのままです。消費税増税の駈込み需要で始まった経済波乱がいまだ沈静化せず、生活物価上昇下のもと庶民の所得目減りが拡大し倹約ムードが広がっています。強引な円安誘導・消費税増税政策により庶民の生活は困窮状態のままです。メディアでは一部輸出型製造業が儲かっているとか株価が最高値を更新しているとかで景気は回復していると伝えられていますが巷の庶民の会話ではその話を真に受けて景気が良いと言う話をする人には殆ど遭遇しません。
 アベノミクス正当化の為に日銀が日本国債を際限なく買い支え、また株価吊り上げの非常手段も駆使し続けています。さらに景気の腰折れを起こさぬ為の公共工事の惜しみない発注も続いています。住宅着工を増やすためフルローン復活・超低金利での長期住宅ローンの誘導もなりふり構わず行われ金融機関も困惑しています。さらに1000兆円を超える借金を抱えオリンピック招致やリニア新幹線工事着工もしてしまいました。庶民感覚では絶句するようなことが次から次へと行われています。
 なるほど震災復興・オリンピック・リニア新幹線・大型再開発工事等の大型需要が目白押しで職人不足かもしれませんが、これらの需要だけにより建設業全体でパニックが持続すると言う説明は素直に納得できません。建築工事費高騰のあおりで一般民間工事の受注が激減し平成27年度の新規民間物件が一向に取れないとの悲鳴がスーパーゼネコン・準大手建設会社以外の地元建設会社から聞こえています。今年に入って4月以降その傾向が一段と鮮明になってきて営業最前線では心配の種です。
 いよいよ建築市況に変調が現れたとの新聞記事も掲載されました。アベノミクスを援護射撃する公共工事発注も雲行きが怪しげです。今までの経験からするとメディアに出た時には既に事態が深刻化し実態のほうがかなり先行していたことが多かったので今回もそうなっているのではないかと言う懸念があります。1991年に始まっていたバブル崩壊も実際に表面化したのは1〜2年後になってからでした。今回もすでに景気は悪くなっていてすぐそこに断崖絶壁が待ち構えていそうな気がします。

久里屋設計界隈散策−その75 大林寺           2015年5月1日(金)

山門…普段は閉まったままで左手から入れる
大林寺…千種区城山町一丁目地内
 大林寺は先にご紹介した尋盛寺のすぐ南にあり、当社から西々南の方向の千種区城山町一丁目地内にあります。臨済宗妙心寺派寺院で妙心寺の直末(直接の末寺)です。初めは福壽山と号していましたが途中で曹渓山と山号を改めたとのこと。名古屋城築城の普請奉行として諸大名の指南をしていた瀧川豊前守忠征が寛永5年(1628年)に築城の余材をもって名古屋市中区南桑名町(元は伏見町)に一族の菩提寺として創建したが、太平洋戦争中に強制疎開でこの場所へ移転したとのこと。本尊は木造釈迦牟尼仏座像、明治維新時に本堂が廃され庫裏を本堂に兼ねたものだそうです。
本堂右手から見る
大林寺本堂…山門を潜ってすぐの所
 忠征は瀧川一益の家臣で武功により瀧川性を授かった人物です。豊臣秀吉の没後は徳川家康に仕え、その後尾張初代藩主徳川義直付の六千石の老臣として名古屋城築城に尽力したとのこと。大林寺には寺宝として名古屋市指定の文化財二点「徳川義直自画自賛顔回の図」「瀧川忠征画像」があるとのこと。義直は家康晩年の第九子ですが名君の誉れ高くまた絵画にも優れその数多くの作品の一つであるそうです。「瀧川忠征画像」の方は筆者不詳とのことです。またその墓地には久屋町魚の棚下に住んでいて、書家としても高名であった名古屋の俳人伊村鴎沙のお墓もあるとのこと。

久里屋設計界隈散策−その74 猫ヶ洞池         2015年4月17日(金)

池東部の釣り場を望む、池向こうに墓地が見える
猫ヶ洞池
……千種区平和公園二丁目地内
 猫ヶ洞池は当社から南西約2.5kmの千種区平和公園二丁目地内に位置し平和公園の一角にあります。山崎川の源流の一つで尾張藩二代目藩主徳川光友時代に農業用ため池として寛文4年(1664年)に上池、寛文6年(1666年)に下池が完成。当時其々を猫ヶ洞池・大池と呼んでいたそうです。江戸時代、これを水源に猫ヶ洞用水が作られ御器所方面の灌漑用に使用、昭和9年(1934年)に下池が消滅。猫ヶ洞の地名の由来は池の西側の日和町と徳川山町辺りを以前は「金児硲(カネコハザマ)」と呼んでいたのでどうもそれが由来ではと言う説があります。ハザマとホラは同じ意味です。
フェンス越しに見える柵で囲まれた溢水穴
溢水穴
……池北東部にある溢水用排水口
 大雨で猫ヶ洞池が増水すると堤から溢れた水が流れ出します。このため作られたのがこの溢水穴であろうと思われます。その昔大雨の後に増水した水が一揆に山崎川に流れ大きな鯉や鮒が一緒に流されてきたことが何度もあった記憶があります。今付いている柵が当時はなかったのでしょうか?または当時は池の作りが違っていたのでしょうか?今は猫ヶ洞池から本山交差点までは蓋をされ暗渠で通水されているのでこの間水が流れているのをあまり知っている人はいないかもしれません。池の周囲2/3程度はコンクリート護岸で階段状に整備され釣り人に解放されています。

久里屋設計設計界隈散策−その73 大龍寺        2015年4月3日(金)

鯱が載っている特異な外観の本堂
大龍寺…千種区城山新町二丁目地内
 大龍寺は先にご紹介した尋盛寺の南お向いにあります。名古屋では珍しい黄檗宗のお寺で山号を福壽山と号し山城宇治萬福寺の末寺です。享保10年(1725年)、春日井郡阿原村にあった地蔵堂を僧喝伝が東区新出来町二丁目北側に移し建立したとのこと。その後明治45年(1912年)〜大正7年(1918年)に現在の地に移転したのだそうで移転当時はこの地が名古屋五十景の一つに数えられる名勝の地で「五百羅漢の夜雨」の詩歌で知られていましたが、当時は人家もない寂しいところであったそうです。今でも凛とした空気が感じられ、ここが名古屋市内であるとはとても思えません。
金箔の木製釈迦牟尼座像
釈迦牟尼像…両脇に文殊・普賢菩薩
 参道の左手に鐘楼があり、正面奥手に本堂それに渡り廊下で繋がる左右羅漢堂が建てられています。本堂中央に祀られているのは釈迦牟尼像で両脇に文殊・普賢の両菩薩が安置されています。また本堂に繋がる左右の高堂(羅漢堂)には五百羅漢の木像が安置されており、このためこのお寺は五百羅漢と呼ばれているそうです。城の櫓を思わせるような特異な形の本堂や羅漢堂は『尾張名所図会』にもそのまま描かれています。五百羅漢は名古屋城築城の際の犠牲者を供養するため指月和尚の尽力によって造られたもので、内十八羅漢は当地の名工仏師吉村為隆の彫刻だとのこと。

三菱電機稲沢製作所見学                 2015年3月20日(金)

敷地面積184000平米、建物面積152000平米、従業員数1300名
三菱電機稲沢製作所
……稲沢市菱町地内
 中高層マンションではどうしても必要となるのがエレベーター…そのエレベーターの工場を初見学してきました。三菱電機の昇降機は1935年に一号機を納入したのが始まりだそうで、この稲沢製作所はエレベーター・エスカレーターの専門工場として三菱電機が1964年に設立したとのことで、三菱電機の昇降機は国内ではここだけで作っているとのことです。敷地の広さは名古屋ドーム4個分の広さがあるそうです。全世界90ヶ国で稼働する製品のマザー工場として品質の維持・向上を支えており関連会社も含め3500人が働いています。なおホームエレベーターについては2000年に日立と合併し三菱日立ホームエレベーターとして分離独立し岐阜県美濃市内に工場があります。
高さ173.0m、42階建て相当、建築面積440平米
SORAE(ソラエ)
……エレベーター試験塔
 左の模型にある塔を真下から見上げるとこんな感じに見えます。この試験塔は稲沢市の名に因み高さ173.0(イナザワ)mで作られており、次代の超高層・超高速エレベーターを生み出すための様々な試験を行っているそうです。エレベーター頂上部には高層タワーの揺れを吸収する大型の制振装置が備えられています。三菱エレベーターの速度では世界最速と言われたのが横浜ランドマークタワーの750m/分(1993年完成)でしたが、その後台北101ビルの1010m/分(2004年完成)に抜かれました。今度は上海タワーで1080m/分でその座を再び奪い返すとのことです。隣には空中デッキで結ばれている三階建てのショールームがあり、展示室・商談コーナーが用意されています。

久里屋設計界隈散策−その72 台観寺           2015年3月6日(金)

南通路から山門を見る
台観寺…千種区城山新町二丁目地内
 台観寺は当社から西々南へ約3.4kmの千種区城山新町二丁目地内にあります。姫ヶ池交差点から自由ヶ丘3交差点へ抜けるバス通りから墓地の中を南へ登る不動坂の右手にあります。不動坂石段登り口の左手の石に大正9年10月と刻印されています。本堂裏手の入口はこの石段の登り口右手にあり、石段上には先にご紹介した尋盛寺があります。天台宗の寺院であり三重県津市内の寒松院の末寺とのこと。山門右手の石碑にもありますが古渡町の呉服商の主人であった堀栄七(法名台観)が大正8年に本堂を再興したものだそうです。
山門を潜ってすぐの本堂
台観寺本堂
……三間三戸の方形屋根のお堂
 三重県桑名郡大山田村の円明寺の本尊の阿弥陀如来が安置されており、円明山と号し台観寺と称しますが、もとは円明寺と言っていたとのこと。山門を潜った境内左手には武靖大黒天(弘法大師自作と伝承されている)を祀っているお堂があります。お堂の中はあまりよく見えませんがこの大黒様は甲冑に身を固め右手に知恵袋左手に宝棒を持っており「知恵さずけのなごや大黒」として親しみを持って崇敬されているそうです。お堂の入口際縁板上に大黒天の置物が飾られていました。また境内に道引地蔵菩薩があるそうです。

幸福の木(ドラセナ)の花…事務所内で5年ぶりの開花  2015年2月20日(金)

1月31日(土)

 あっと言う間に一月が過ぎて行きました…年明けの忙しさで全く気が付きませんでしたが、ふと見ると知らない間につぼみが三本の穂先に花房状についていました

久里屋設計界隈散策−その71 地下鉄自由ヶ丘駅    2015年2月6日(金)

駅東出入口を東側より見る
自由ヶ丘駅
……千種区自由ヶ丘三丁目地内
 地下鉄自由ヶ丘駅は当社から西々南へ約2.7kmに位置しており、千種区自由ヶ丘三丁目地内にあります。地下鉄名城線の駅であり2003年(平成15年)12月13日に開業した駅で一日乗車客は6000〜7000人くらいで推移しており、地上出入口は自由が丘西交差点を挟んで西側と東側にあります。また東側出入口には駅前ロータリーがあり市バスの降車場が二か所、乗降場が二か所あります。タクシー乗り場とバス待機所が作られています。一つ隣の駅が南に本山駅、北に茶屋ヶ坂駅となっています。今のロータリーの場所には現在駅北側にある千種台中学校が以前あったそうです。
駅西側出入口を東側より見る
西出入口と駐輪場
 以前千種台中学校があったためか計画当初は駅名が“千種台駅”であったそうです。西出入口の隣には有料駐輪場が用意されています。またその南隣には交番がありますので利用者には何となく安心感があります。駅界隈には背後の名古屋市住宅供給公社が管理する市営千種台団地の建物内のテナントとしてスーパーマーケット・郵便局・銀行・ドラッグストア・飲食店・商店等が入っており便利になっています。さらに駅周辺には名古屋商業高校・愛知工業大学自由ヶ丘キャンパス・愛知県立城山病院・千種台中学校・覚王山墓苑・愛知県がんセンター中央病院等があります。

久里屋設計界隈散策−その70 引山バスターミナル    2015年1月23日(金)

南西方向からバスターミナルを見る
引山バスターミナル
……名東区引山四丁目地内
 引山バスターミナルは当社からやや北寄りの北東へ約800m先の名東区引山四丁目地内に位置しています。県道田籾名古屋線(出来町通)に面しており名古屋市交通局と名鉄バスが共同で使用していて、基幹バス2号系統の東の拠点になっています。ターミナル出入口は引山バスターミナル信号交差点にありますが一般車両は侵入禁止となっています。何か建物のような施設がある訳でもなくターミナルと言っても乗降のための広場とバスの待機所があるだけです。バス降車所が一か所、バス乗車所が1〜3番までの三か所あります。
ロータリー中央部を西方より見る
バス専用駐車場のあるロータリー
 ロータリーの東西には無料駐輪場が用意されており利用者の便に供しています。この駐輪場は原動機付自転車(50cc以下)も止められて便利なのですが屋根が付いてないのが少々残念です。また公衆便所も一か所設置されています。一般車両はロータリーに入れぬため自家用車での乗降客送迎用に東側道路よりアクセスできる進入路が作られています。またターミナルから北へ約400m行ったところにダイエー名古屋東店、東へ約200m行ったところに市営引山住宅、交差点を挟んだ南反対側に愛知銀行猪子石支店があります。

久里屋設計界隈散策−その69 尋盛寺           2015年1月9日(金)

一番古い建物「山門」
尋盛寺…千種区城山新町二丁目地内
 尋盛寺は当社から西々南へ約3.3kmの千種区城山新町二丁目地内に位置しています。自由ケ丘3丁目の交差点方面から西へ行き市道が姫池通へ抜ける手前辺りにあります。先にご紹介した日泰寺奉安塔の道路を挟んでちょうど南側の敷地になります。バス通りから見て墓地の背後の丘上に見えます。境内には印象塚があり「印章供養祭」を行っているとのこと。印章は聖徳太子大化の改新に印章の制度が布かれ、明治元年太政官令により法制確立して以来権利と責任の信証の具として用いられています。毎年10月1日を印章の日と定め廃印の供養焼納をしているとのことです。
本堂左側面(北側)より見上げる
尋盛寺本堂
……北側バス通りより見上げる
 浄土宗の寺院で京都知恩院の末寺になります。ご本尊は木造阿弥陀如来坐像で五臺山大聖竹林院とも言います。尋盛上人が文禄年間(1592年〜1596年)清州に創建されたのが始まりとのことです。その後清州越により名古屋城下に移転し境内が中区白川町五丁目の西側にあったそうです。元文三年(1738年)六月隣家よりの出火で山門・鐘楼を除き焼失したそうですが九世弁道のときに再建されたとのこと。この地が防空公園(白川公園)の予定地となったため現在地に移転したとのこと。山門のみが清州越え以来の古い建造物であり他は再建をしているので比較的新しい建物です。

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