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ブログ−2013年

建築業界見晴台…「消費税増税で混乱する建築業界」    2013年12月27日(金)

 いよいよ年末となり来年4月からの消費税増税施行が眼前に迫ってきました。為替レートが今年初め頃一ドル90円位だったのが今は105円位になり、約5年間続いた超円高(80円〜90円位)に変調が出てきました。この円安のせいで日常生活物価がじりじり上昇してきたのが誰にでも感じられています。インフレ目標も一つの理由になっている今回の増税政策ですが増税前に既に一部でインフレ状態になってきており、消費税増税はこれに追討ちをかけることになり想定以上のインフレ率となることでしょう。
 国税庁の統計によればここ10年くらい民間給与所得は下がる一方で、社会保険料負担増加・増税等で勤労者の可処分所得も年々減少しています。我国の経済は輸入品に頼るところ大にて為替レートは国内物価に与える影響が重大です。勤労者の可処分所得が減り続けていても超円高による日常生活物価が安い状態が続いていたので、そんな中でも庶民はなんとか普通に暮らすことができてきたのだと思います。しかしこの救いの手をごく一部の輸出型製造業の為に円安誘導にして断ち切ろうとしています。
 今ここで消費税増税を強行すればこの円安インフレにさらに拍車をかけることになります。今回は物価だけ急に上昇して庶民の収入は目減りしたままですから、深刻な消費低迷に陥るのはほぼ確実な気がします。物価だけが上がり庶民所得が置いてきぼりになればこれは悪いインフレと呼ばざるを得ないでしょう。1989年消費税導入時はバブル終焉の頃、物価も高いが給料も何もかも上昇していたのです。今はあの時とは経済環境が全く異なっており実質所得が目減りする中増税ショックは甚大となります。
 無理のない自然インフレではなく先走った官製インフレ目標強行の弊害が様々なところで続発しています。建築工事費も消費税増税による駆込み需要増大(需要の先食い)・それを起因とする人手不足/材料不足/機材不足/便乗値上げ・政府と日銀が仕掛けている円安誘導による原材料費上昇が影響し2年前と比べ2〜3割上昇しました。公共工事も入札不調が続発し民間工事も工事断念のケースが急増しています。経済原則の需給バランスを無視し庶民の暮らしを軽視し続ける政策は必ず行き詰まると思います。

久里屋設計界隈散策−その53 八坂社          2013年12月13日(金)

南から鳥居を通して社殿を見る
八坂社…千種区上野一丁目地内
 八坂社は当社から直線距離で西へ約3.55km離れた谷口交差点近くの千種区上野一丁目地内にあり、県道田籾名古屋線(出来町通)から二本入った筋にあります。社は南西角地にあり南北に走る市道に沿う細長い境内で、お隣東側には永弘院の伽藍が拡がっています。すぐ南方に市立上野小学校もあります。基幹バス2“谷口”停留所から徒歩3分くらいなので便利なところにあります。先にご紹介した上野天満宮(ここから東へ約420mの距離)の三分社の一つで、須佐之男命をご祭神とし厄除け・疫病除けのご神得があるそうです。
西道路斜めから頭上の社殿を見上げる
拝殿と本殿
……RC造の二階部分にある
 京都の八坂神社を勧請して建てられたものだそうですが、鉄筋コンクリート造の鳥居を潜って長い参道の奥にある階段を登り詰めたところに拝殿・本殿があります。社殿下階は鉄筋コンクリート造ですが、木造社殿は二階部分にあるので極めて珍しい造りとなっています。上の写真でよく分かると思いますが、一階部分は倉庫にでもなっているのでしょうか、この上に社殿が載っており周りから見上げられる状況になっており奇異な感じがします。30年くらい前までは八坂社にも山車があったそうですが事実関係はよく分かりません。

久里屋設計界隈(ゆかりの地)散策−その52 晴明神社本社 ’13年11月29日(金)

堀川通りに面する一の鳥居
晴明神社…京都市上京区晴明町地内
 前回千種区清明山にある晴明神社をご紹介しましたが、たまたま京都に行く機会があり晴明神社の本社を訪ねてみました。晴明神社本社は京都市上京区一条橋のたもと(北西)にあった晴明屋敷跡に鎮座しており、堀川通りの西側の一角にあって都会の真中にあります。大勢のお参りの人々で賑わっていました。1005年(寛弘2年)晴明が没した後の1007年に一条天皇が晴明の偉業を称えその屋敷跡に創建したのが神社の起源とのこと。その後の度重なる戦や豊臣秀吉の都市整備等により境内は次第に縮小し神社も衰退したが幕末以降氏子らの尽力で社殿・境内が整備され1950年に堀川通に面するよう拡張されたとのこと。毎年秋分の日には例祭(晴明祭)が行われるそうです。
細い葭屋町通りを渡り四神門を潜ると本殿がある
晴明神社本殿…明治38年の普請
 安倍晴明公は孝元帝の皇子大彦命(おおびこのみこと)の御後胤で幼少期より利発であったとのこと。特に天文学に優れ神道を意のまま操る霊術を会得。朱雀帝から六代に渡って天皇の側近であり、唐の国にも渡り城刑山で伯道仙人の神伝を学び帰国後日本独自の陰陽道を確立させた。社殿入口に向かって左手に神社所蔵の肖像画をもとにした安倍晴明公像があり、右手には厄除桃が置かれています。古来中国それに陰陽道でも桃は魔除け・厄除けの果物と言われているそうで、古事記・日本書紀にも描かれているとのこと。その右には樹齢300年と言われる楠の御神木がそびえています。また境内の一角に千利休の屋敷があったことも最近茶書により確認されています。

久里屋設計界隈散策−その51 晴明神社         2013年11月15日(金)

晴明神社境内を南東より見る
晴明神社…千種区清明山一丁目地内
 晴明神社は当社から西へ直線距離で約3.75km離れた千種区清明山一丁目地内にあり、名古屋ドームのすぐ南東の清明山第二公園の北側に位置しています。千種区の北端にありすぐ北側は東区前浪町となっています。市営交通基幹バス“萱場バス停”から徒歩5分くらいで、清明山住宅の一角にあります。この清明山と言う地名はこの神社のご祭神である平安時代の陰陽師安部晴明に由来して付けられたことのようです。安部晴明が尾張国狩津荘上野邑に在住していた頃寛和三年(987年)に当地へ移住したとも伝えられ、また政変によりこの地に流されたと言う説もあります。(上野天満宮の由緒にも安部晴明一族が京を追われこの地清明山に移住してきたとあります)
晴明神社社殿正面より見る
晴明神社社殿…木造切妻屋根造り
 晴明在住のころ付近の村人達が湿地に生息するマムシの被害に悩まされていたのを、晴明が陰陽道でマムシを退治したと言う話があるそうです。その後江戸時代に再びマムシの被害に悩まされた村人達が、その晴明のマムシ退治伝説を思い出し、(安永7年)1778年晴明の神霊を勧請し晴明神社を建てたところ、途端にマムシがいなくなったとのことです。また旧日本軍が祠を移設しようとした際高熱を発したとか、隣接する県営清明山住宅建設工事の際二度も事故が起きたと伝わっているそうです。安部晴明に因む伝説は全国各地にあり、この地の晴明伝説も実話かどうかは分からず“千種村物語”では現実にはこの地に来ていなかったのではないかと記されています。

久里屋設計界隈散策−その50 上野天満宮別宮       2013年11月1日(金)  

赤坂町交差点越しに天満宮別宮を見る
上野天満宮別宮
……千種区赤坂町一丁目地内
 上野天満宮別宮は当社から西へ約2.7kmの千種区赤坂町一丁目地内、赤坂町交差点西北角に位置し、茶屋ケ坂公園のちょうど信号交差点を挟んだ反対側にあります。市バス赤坂町バス停の真ん前で便利な場所にありますしすぐ西側には弁天公園があります。数年前までは小さいながらもそれなりの社殿と境内がありましたが、何故かいまは敷地全体がコンビニになってしまっており、その駐車場の一角に小さな祠が鎮座しています。この場所は昔からよく通っていましたが、境内にはいつも全く人気がなくひっそりしていました。
天満宮別宮祠を正面東側から見る
別宮祠
……コンビニ駐車場南西角にある
 この別宮の約450m西には天満宮本宮があります。本宮の境内地以外にはこの別宮の他に八坂社(千種区上野一丁目地内/御祭神は須佐之男命)・愛宕社(千種区北千種二丁目地内/御祭神は迦具土神・雷神)の二社があります。この別宮においては毎年10月25日の上野天満宮の例祭を済ませた後に、御祭神である菅原道真公等が神輿に乗って本宮から別宮(御旅所)までお渡りになられる神幸祭が行われるそうです。御祭神は本宮御分霊となっており、普段は本宮の方におられるのでお渡りのとき以外はこの祠にはご不在とのこと。

久里屋設計界隈散策−その49 上野天満宮        2013年10月18日(金)    

南側駐車場より鳥居を通し社殿を見る
上野天満宮
……千種区赤坂町四丁目地内
 上野天満宮は当社からほぼ西へ約3.2kmの千種区赤坂町四丁目地内にあり、茶屋ケ坂池からは650m西の位置です。すぐ西を南北に走っている県道関田名古屋線は天満通とも呼ばれ場所は分かり易いです。最寄のバス停「天満通一丁目」から東へ徒歩1分、地下鉄名城線砂田橋駅より南へ徒歩10分/茶屋ケ坂駅より西南へ徒歩10分の所にあります。1000年ほど前に陰陽学者の安部晴明一族が京を追われ千種区清明山に移住し、自らの境遇や同様に京を追われた菅原道真公の心情をはかり、この天満宮を建てたのが由来とのことです。江戸時代に矢田川氾濫のせいで創建場所からは移動し今の場所にあるのだそうです。後に安部一族は思いがかない京へ帰ることができました。
拝殿を南西より見る
拝殿…鳥居を潜って正面
 天神様は学問の神様として各地にあり愛知県では岡崎市内の岩津天満宮が特に有名です。天神様とは本来稲妻の事を指しており、雷光は天の恵みの雨を降らせ農業を守護したり地震や火事などの災いももたらします。平安時代/昌泰4年(901年)道真公は大宰府に左遷され延喜3年(905年)にこの地にて没しました。公を策謀にて左遷した藤原氏に次々と不幸が起き、これは天神となった道真公のバチだと思われました。このため天神祠のあった北野に菅原道真公の霊が祀られ、以来「天満大自在天」と呼ばれ災難を除き福を招く「除難招福」の神様と慕われているとのこと。頭脳明晰な道真公の徳から学問を志す学生たちの受験の神様として信仰されるようになりました。

建築業界見晴台…「駆け込み需要の動かぬ証拠」       2013年10月4日(金)    

 お彼岸も過ぎ10月に入りましたが一向に涼しくならず、まだ衣替えをする気にはなかなかなれません。これだけしつこい暑さも過去あまり記憶にありません。さて前にお話しましたが消費税駆け込み需要で建設会社はどこも多忙を極めているようで、下請業者・職人の確保も大変なようで工期に遅れが出ている現場も増えているとのことです。監督さんも皆出払っていて相変わらず手の空いている人がおらず、どこの建設会社も見積りができたとしても今は新規の着工は難しそうです。
 2020年の東京でのオリンピックの開催も決まり、オリンピック関連の需要も高まるので建設業界の景気も良くなるのではと言う話をする人もいます。加えてリニア新幹線のルートや駅等の事業計画が決まりいよいよ工事も本格的に始まるとのこと。それに東北の震災復興も相変わらず続きますし、また短期的に名古屋圏内はで名古屋駅前で大型建築工事が三つもあるので、ここしばらくは職人も重機も大忙しで足りなくなり建材も逼迫してきて大変になってくるのではと言う人もいます。
 これだけのことで建設業界全体が持続的に忙しくなり職人不足がずっと続くと言う話にはあまり説得力を感じません。建設業従事者はピークに比べ3割ほどは減少していますから今は確かに多忙なことでしょう。でも駆け込み需要の収束後は国内経済がしぼみ建設需要も人口減少・産業空洞化と供に勢いがなくなって来たもとの状態に戻るのではと思います。今瞬間的に特殊事情による民間建築需要が沸騰しているだけで、国内の民間活力復活なしでは底堅くこの流れが続くとは思えません。
 9月中旬から新規の建築案件が急減したと言う話を最近よく建設会社から聞きます。これは今回の民間建築需要の拡大が景気回復ではなくやはり消費税増税駆け込みであったことを裏付けています。10月以降はもっとこれが全体に渡って鮮明になってくると思います。消費税が初めて導入された24年前のことが思い出されます。この時はもっと長期間でしたがやはり駆け込み需要で大繁忙でした。でも結局その後は需要の先食いで仕事量が大きく落ち込み苦しむことになってしまいました。

久里屋設計界隈散策−その48 弘法堂           2013年9月20日(金)

御堂を西側交差点から見る
弘法堂…千種区赤坂町地内
 弘法堂は当社から西へ約3km離れた千種区赤坂町地内にあり、出来町通から南へ一本入った筋の五差路交差点の鋭角角地の小さな敷地にあります。前にご紹介した金森明神からすぐ西へ約220m、また吉見幸和のお墓から南東へ約250m行ったところにあります。市バス茶屋ケ坂バス停(基幹バス)からは徒歩3分くらいです。永年この前の道はよく利用し通っていましたが、敷地も10坪程と狭く建物も御堂と言われても何かの小屋にしか見えず今まで全く認識がありませんでした。
御堂正面から見る、左手出来町通へ抜ける
弘法堂南側…正面ここから入る
 弘法堂は3〜4坪程のたいへん小さな平屋の木造建物です。廿日弘法とも言われ、毎月20日・21日に地域住民が集まり「お待夜(おたいや)」を行っているそうです。外からガラス越しに垣間見えますが、御堂の中には四体の石仏がありそのうち一番大きな地蔵尊は道標仏になっており「右・みなみかさでら道 左・坂を下って左へりゅうせんじ道」と言う刻銘が入っているそうです。このような道標は尾張の街道筋ではよく見られるそうで、これは文化2年(1805年)の建立仏とのこと。

建築業界見晴台…「不安材料の多い建築業界今後の行方」    2013年9月6日(金) 

 9月に入り暑かった夏も終りが近づきようやく少し涼しくなってきました。逆に今世間では、今年春ごろから次第に高まってきた消費税増税を予測した消費財の駆け込み需要が異常に熱くなっている昨今です…当然ながらとりわけ高額なものほどひどく過熱しています。消費者が買い急ぐのはもちろんですが、業者側も消費者の心理を煽るようなコマーシャルを流し誘導しています。1989年4月1日消費税3%が導入されたあのときに似た状況になってきており、巷では混乱の様相を呈しています。 
 建築工事ついては、9月中に工事請負契約を結べば、完成が増税予定の4月1日以降でも5%で行けますので、今月はどこの建築業者も話が一杯きてパニック状態だそうです。職人が足りないばかりか現場監督さえも来年3月頃まで全くいないところが多いと聞き及びます。おりしも、東北の震災復興工事本格化が重なっているところへこの有様ですから、今建築会社の見積りを取るとびっくり仰天の見積り金額が出てきます。現場監督のいないところは見積り自体断ってくるところも増えています。
 もはや今建築をやろうと言う方々が全員消費税増税前で間に合わせることは不可能になりました。そしてあまりの建築フィーバーで異常に上がった見積り金額を見て、びっくりして止めてしまうケースもかなり増えているのが現実です。必要に駆られて進められている法人の設備投資がらみの建築等は建築費高騰でも実行されるでしょう。けれども家賃収入で事業運営や借入金の返済を行う賃貸事業(とりわけ賃貸住宅)は、家賃上昇がない限りこの建築費の高騰の最中では話が冷えて行きます。
 消費税3%が導入された1989年はちょうどバブル経済が頂点の頃で、土地価格・給料・物価等あらゆるのものが高騰していたときのことで、ドサクサに紛れて導入した感がします。しかし現在は、産業の空洞化・少子高齢化社会拡大・非正規雇用拡大・民間給与減少・円安誘導による国内消費財上昇・日本国債肥大化・人口減少等1989年当時とは社会/経済背景が全く異なっており、この増税後の先行きには極めて不安を感じます。やるべきことは増税ではなく他にあると多くの国民は感じています。

久里屋設計界隈散策−その47 金森明神          2013年8月23日(金)

裏通りの交差点角にある明神様
金森明神…千種区赤坂町一丁目地内
 金森明神は当社から西へ2.9kmくらい離れたところにあります。出来町通から一本南へ入った筋の住宅街の南東角地にありますが、あまりに小さなスペースなのでしっかり探さないと見過ごしてしまいます。ちょうど茶屋ケ坂バス停から南へ徒歩1分くらいなのでバスで行かれるのが便利です。明神様と言えば霊験あらたかな神様ですが別名「景清さま」と呼ばれ、ここの明神様は眼病に霊験があるそうです。景清とは藤原景清のことだそうで、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)一族で伊藤景清とも言われています。藤原景清(俗に平景清とも呼ばれる)は全国各地にその伝説が残っている人物で、生誕年不詳ですが建久7年(1196年)に没していると伝承されています。
コンクリートの台上にある祠
祠…共同住宅の一角にある石造
 藤原景清は源平合戦で活躍し、源氏方の美尾屋十郎の兜の錣を素手で引きちぎった「錣引き」が特に有名な話です。上総悪七兵衛とも呼ばれますが悪人と言う意味でなく勇猛果敢さを表するようです。平家敗退後に源頼朝の温情にて和田義盛・八田知家らに預けられ、最期は断食し果てたそうで鎌倉市の化粧坂の入口に「景清窟」と呼ばれる洞窟がありその場所と伝承されます。一説では僧として日向に流された景清が、源氏への恨みから自分の目をくり抜きその目が落ちた場所だと言われる生目神社が宮崎市にあります。「日向の生目様」と言われ眼病の神様として有名です。何故この地に景清なのか分かりませんが眼病に良いと言うのはこの辺に由来があるのでしょうか。

久里屋設計界隈散策−その46  吉見幸和の墓        2013年8月9日(金)

出来町通に面するマンション裏手にひっそり佇む
鍋谷上野神葬墓地
……千種区茶屋が坂一丁目地内
 吉見幸和の墓がある鍋谷上野神葬墓地は当社から西へ約3.5kmの千種区茶屋が坂一丁目地内に位置しており、鍋谷上野浄水場を見下ろす台地の端にあり愛知県神社庁により管理されています。すぐお隣が鍋谷上野浄水場の敷地となっており煉瓦造りの旧第一ポンプ所の東真横にあります。バス通りから一本入っており奥まった所にありますのでなかなか分かりにくいかも知れません。この神葬墓地は江戸時代中期尾張名古屋東照宮神官であった吉見家の私邸跡に造られています。正保二年(1645年)幸和の祖父幸勝が藩祖義直に仕えて初めて東照宮の祠官となり、ここ上野村に三反三畝余の土地を得て別荘としました。以降吉見家は代々名古屋東照宮の祠官であったそうです。
神葬墓地の中央にある吉見幸和の墓(写真の真中)
吉見幸和の墓
……神葬墓地の中央にある
 幸和の父恒幸は正四位下民部大輔、母の蓮子は歌人として優れた才能を発揮した人。また幸和は元禄12年(1699年)正四位下刑部大輔となり、神学や国学はもとより儒学や武技にまでその奥技を極めた人であったそうですが、晩年この地に閑棲して専ら学問の道に精励活躍され宝暦11年(1761年)89歳にて生涯を閉じられたとのこと。そしてこの地に先祖と供に葬られその後吉見家代々の墓所として継承されていましたが、大正時代始め頃に八代目吉見幸純がこの墓地を広く開放するため愛知県神職会に寄付されて以来神職会(神社庁)の管理下となりました。昭和41年市の要望により土地の一部を水道局用地として売却、その代金が神社庁庁舎建設資金に供されたとのことです。

久里屋設計界隈散策−その45  地下鉄茶屋ヶ坂駅     2013年7月26日(金)

中央がバスターミナル、右手に1番出入口、左手に2番出入口、右下に基幹バスレーンのある出来町通
茶屋ヶ坂駅
……千種区茶屋が坂一/二丁目
 地下鉄茶屋ヶ坂駅は茶屋が坂一丁目/二丁目の両地内にあります。開業は2003年12月13日で名城線(環状線)の駅です。一日の平均乗車人員は6495人(平成23年データ)とそんなに多くありません。地下鉄は線路もプラットホームも地中にあるため駅も地下にあるものが多く、なかなか地上に駅舎らしきものが見当たらず、ここが駅だとはっきり分かる駅はそんなに多くはありません。そんな中でこの駅は市バスのターミナルがありますのでまだ分かり易いほうだと思います。また地下街店舗などもなく、地上に出たところにコンビ二があるのがせめてもの駅の賑わいと利便性なのか?
コンビニ駐車場からバスターミナルを望む
バスターミナル広場
 バス乗場がある市バスターミナル広場です。ターミナル部分は昔は賃貸マンションと店舗建物があったところ、名古屋市が用地買収して造ったのでしょう。バス路線は少なく(茶屋11、茶屋12、東巡回茶屋ヶ坂〜大曽根、基幹2)、この駅を起点とする周辺地域との交通アクセスはそんなによくなく、茶屋ヶ坂駅の利用者を増やすには周辺地域からの交通アクセスを整備して、駅利用の使い勝手を工夫する必要があると思います。本数の多い基幹バスのバス停“茶屋ケ坂”が駅から外れているのもなんとも残念なので、利用者の立場からすれば是非改善を期待するところです。

久里屋設計界隈散策−その44 三十番神社        2013年7月12日(金)

東交差点反対側から見る
三十番神社…千種区茶屋が坂一丁目
 三十番神社は当社から西へ約2.7kmの千種区茶屋が坂一丁目地内に位置しており、パチンコ屋の駐車場の隣で交差点の片隅に祀られています。先にご紹介した“ちょろちょろ弘法”さんからわずか260mくらい西にあって茶屋が坂交差点の北西角にあります。北へ徒歩1分で地下鉄茶屋ケ坂駅(2003年12月13日開業)があり、また西へ徒歩1〜2分で茶屋ケ坂バス停がありますのでお参りに行かれるなら公共交通がたいへん便利です。基幹バスが走り交通量がかなり多い出来町通に面していますので車窓からもよく見えます。境内は7〜8坪くらいとたいへん狭くお社もとても小さいものですから日頃ここを通過していてもここにお社があるのを知らない人も多いのではと思います。
狭いながらも緑陰に囲まれる
交差点角にある小さな祠
 三十番神社と言うのはあまり聞きなれない神社でどんな神様を祀っているのかあまりよく知りませんでしたが、三十番神と言うのは陰暦の1日から30日までの毎日を交代して国や法華経を守る三十の神々だそうで三十番神社は他の地方にもあるようです。そもそも最澄(伝教大師)が比叡山に祀ったのが最初とされ、平安時代末には民衆に広まり鎌倉時代には盛んに信仰されるようになったとのことです。特に日蓮宗で熱心な信仰がされたようです。当初は十二神であったとの説もありますが、鎌倉時代あたりから天皇の守護神ともなり各種の三十番神が登場したとも言われているようです。1868年神仏分離のため明治政府により配祠が禁じられ衰退したのではないでしょうか。

セーマンの印                       2013年6月28日(金)

萬徳寺(稲沢市)本堂の屋根
獅子口の鬼瓦
 今日の日本では殺伐とした事件が毎日覚え切れないくらいの数で起きています。また正義に反するようなことがまかり通り、まともなことが堂々と言えないような社会となってしまいました。次第に人々の思いやりも薄れ、本来の常識が非常識呼ばわりされてしまう風潮すらあります。何故こんな日本になってしまったのでしょうか。
 さて日本建築の瓦屋根には鬼瓦が古来より使われています。鬼瓦は厄除けと装飾を目的とした役瓦の一つです。ルーツはシリア中央部にあったローマ帝国支配時の都市パルミラの建物入口の上にあった厄除けのメドゥーサの文化がシルクロード経由で中国に伝来し、それが奈良時代に唐文化と供に我国に入り普及したもののようです。 
タイルに焼き付けた“セーマン”
セーマンの印タイル
 の写真は当社の造る賃貸マンションによく使うタイルです。この星形印は伊勢志摩地方の海女さん達が、海の魔物トモカヅキや山椒ビラシ等から身を護るために磯手拭や襦袢などに黒糸で入れるもので、“セーマン”と呼ばれています。星形は一筆書きで元の位置に戻り始めも終わりもないことから魔物の入り込む余地がないのです。
 鬼瓦を見かけなくなったせいか、今では魔物のような個人や団体がはびこり善良な人々を脅かしています。当社の造る建物には、この邪悪な社会から住んでいる人々や地主さんを護ってもらう意味で鬼瓦の代わりにこの“セーマン”の印を使わせて頂いています。久里屋設計の“セーマン”の印は鬼瓦の役割を担って貰っているのです。

マンホールの蓋                      2013年6月14日(金)

桜の花と五条川の鯉のぼり流し洗い
岩倉市下水道マンホールの蓋
 日頃仕事上で建物を計画するため知らない土地を見に行く機会が多いのですが、或るときふと足元のマンホールの蓋を見ると、それまでは単なる蓋と思っていただけの表面に図案が施してあることに気が付きました。昔は味も素っ気もないマンホールの蓋が多かった記憶なのですが、よく見ると各地に楽しい図案がいっぱい。以来マンホールの蓋のデザインがどこへ行っても気になってしまいます。其々の市町村がマンホールの蓋のデザインに趣向を凝らして造っていることに気付き感銘を受けます。私はまだあまり見たことはありませんがカラフルなカラー蓋もあり、また海外でも楽しい図案のものがたくさんあるようです。
丸岡城と「一筆啓上申し上げます」
丸岡城(丸岡市)にあった排水溝の蓋
 左上の写真は、よく仕事で出かけることの多い岩倉市のものです。岩倉市と言えば山内一豊公生誕の岩倉城と桜の名所五条川で有名な町です。その五条川では毎年鯉のぼりを川で洗う風物詩があります。その様子を表してデザインがされています。また、右上の写真はたまたま越前丸岡市にある丸岡城【1576年(天正4年)柴田勝家公の甥勝豊によって築城された】を訪れたときにお城の下の通路で見かけたものです。中心には丸岡城をあしらい、右側には徳川家康公第一の功臣である本多作左衛門重次が妻に書き送った「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥せ」と言う有名な話をモチーフにしたフレーズが入っています。

建築業界見晴台…「どうなる?今後の建築費動向」      2013年5月31日(金) 

 今年4月辺りから建築の計画や施工が増えてきているようです。最大の原因としては消費税/相続税増税の可能性だと思われます。計画的に行われる企業の設備投資・営繕工事等は当然ながら増税前に前倒しにするでしょうし、また個人の住宅取得予定者も増税前に取得しようとするでしょう。また個人富裕層の方々も増税の前に相続税対策に建築をと急がれる方もあることでしょう。これらの動きの高まりで建設会社が瞬間的に見積り依頼や工事請負で忙しくなってきていると察せられます。
 もともと長期に渡る建築業界不振でこのところ建築労働者が減り続けてきており、またその上東北地方の震災復興工事が忙しくなってきたため全国から職人が被災地へ移動していることもあり、ちょっと仕事量が回復しただけで職人不足が露呈し労賃が高騰し建築費が上がる体質になっています。この繁忙の為か建築工事請負金額が上昇してきています。また円安による建材値上がりの影響も及んできました。リーマンショック後の安値からおよそ二割程度は高くなってしまったようです。
 建築業界は他業界に比べ長時間労働や重労働の割りに賃金が低くあまり人気がありません。そのためか長年に渡り労働者が減り続けてきました。職人全体が減少しているのですが、型枠工・鉄筋工等の職人不足の感が特に強いようです。また手抜き工事や耐震偽装事件等で建築基準法が一段と複雑化・高度化してきて現場監督・設計監理の仕事も年々難しくなってきていますが、現場監督者・設計監理者も高度な仕事の割りに賃金があまり上がってきていませんので同様なことが言えます。
 一般庶民の実質所得の回復なしに建築工事費だけが高騰し続けることは不可能です。しばらくは現状維持の可能性が高そうですが、歴史的に見ても何らかの形で踊り場や調整局面が必ず来る筈なのでこのまま建築工事費が上昇し続けることは多分ないでしょう。増税後の景気後退を懸念し様々な対策も講じられそうなので国民がこのまま翻弄されるかどうかも怪しくなってきました。さらなる実質賃金ダウン直結の消費税増税のための恣意的政策自体も行き詰まる可能性が漂ってきた昨今です。

久里屋設計界隈散策−その43 東山動植物園        2013年5月17日(金)   

東山動植物園正門
東山動植物園…千種区東山元町地内
 東山動植物園は当社から南南西へ約3.3kmの位置にあり、約60haの広さを誇り動物園・植物園・遊園地・東山スカイタワーなどが揃っており一日いても飽き足らない施設です。植物園は自然林を生かした展示法で温室や合掌造りの家もあって、万葉の散歩道・薬草の道・東海の森など1km程の散策コースもあります。開園したのは昭和12年(1937年)3月で、現在の飼育動物数は497種13412点/植物数は237科7000種に及びます。子供の頃市電に乗ってこの動植物園へ遊びに行ったのをよく覚えています。動物を観るのも楽しかったのですが遊園地のゴーカートに乗るのも感激しました。当時はテレビがまだ普及していなかった時代、市民にとって貴重な娯楽の場でした。
東山動植物園北門
駐車場から北門を見る
 園の起源は明治23年(1890年)中区前津町【明治43年に大須門前町に移転】で一般公開された動物商/今泉七五郎氏の「浪越教育動物園」で、後の大正7年(1917年)に一切が市に寄贈され「名古屋市鶴舞公園付属動物園」として開園したのが始まりで、次第に手狭となり昭和10年開園したばかりの東山公園内に移転した。太平洋戦争時には食糧難で多くの動物達が犠牲となり休園に追い込まれたのですが、戦後再び開園され昭和26年には移動動物園(後のニコニコサーカス/20年間続く)も始まり、子供達に夢を与え続けてきました。戦後〜昭和30年代は象のマカニー・エルド、昭和30年〜40年代はゴリラのゴン太・オキ・プッピー、昭和60年〜現代はコアラが人気の中心です。    

久里屋設計界隈散策−その42 千種スポーツセンター     2013年5月3日(金)

センター南側(エントランスホール出入り口部分)を見る
千種スポーツセンター
……千種区星ケ丘山手
 千種スポーツセンターは当社から南南西約3kmのところに位置しており、東山通からUFOのような丸い屋根が見えますのですぐに分かります。千種図書館の東山通(名古屋長久手線)を挟んだすぐ北側にあります。西側に新池があり北側に市立東星中学校があり、さらにその北側一帯が平和公園の南端部分となっています。中学校のすぐ東隣には昭和34年創立以来55年続いていた県立東山工業高校がありましたが平成23年3月に廃校となりました。また新池北の千種区田代町瓶杁地内には現在千種区香流橋一丁目地内にある軽費老人ホーム清風荘が以前建っていました。当センターは平成10年7月15日開館し、公益財団法人名古屋市教育スポーツ協会が管理しているものです。
屋内バスケットボールコート(2面)
第1競技場
 敷地面積43,422.59平米、建築面積4,867.27平米、延床面積9,799.13平米、駐車台数100台の規模で作られており、施設内容は第1競技場・第2競技場・軽運動室・トレーニング室・屋内温水プール・アーチェリー練習場・会議室で構成されています。第1競技場は1,620平米でハンドボール/バスケットボール/バレーボール/卓球/バトミントン/レク・インディアカ等ができ観覧席/ランニングコースも用意されています。第2競技場が496平米で柔道/剣道/空手/なぎなた等ができやはり観覧席があります。さらに軽運動室は246平米で卓球/エアロビクス等ができます。トレーニング室は349平米、そして屋内温水プールは25m/7コースと幼児用35m/1コースとなっています。

久里屋設計界隈散策−その41 千種図書館         2013年4月19日(金)

千種図書館…千種区田代町瓶杁地内
 名古屋市立千種図書館は当社から南南西へ約3.2kmのところに位置しており、東山動植物園北園門のすぐ東側の千種区田代町瓶杁地内にあります。平和公園と東山公園の間の谷状部分にあり、東山公園のすぐ北側で県道名古屋長久手線(東山通)に面した南側に建っていて、道路を挟んだすぐお向いには千種スポーツセンターがあります。また東へ徒歩6〜7分で星ケ丘駅界隈の商業施設群がありますので何かと便利な所にあります。私自身もこの図書館を若い頃利用したことがありますので、当時のそのままの状態で今も市民に利用されているのを見ると、何かタイムスリップしたような感もありとても懐かしく感じます。
大通り反対側からの図書館全景
 後ろに見える木々は東山公園の一部です。大通りからは分かりにくいのですが建物裏側に小道があり、そちら側に台数は少ないですが駐車場があります。1968年(昭和45年)10月に開館した施設で鉄筋コンクリート造2階建て延床面積1106平米の規模であり1階が展示コーナー/2階が閲覧室となっています。地下鉄東山公園駅と星ケ丘駅との丁度中間にあり両駅から約500m(徒歩6〜7分)の距離です。開館時間は火〜土曜(祝日除く)9:30〜19:00、日曜・祝日は17時までです。蔵書数は約8万冊で年間来場者数は236,000人程度となっています。老朽化のために耐震改修・リニューアル改修・移転計画等が検討されているようです。

久里屋設計界隈散策−その40 茶屋ケ坂公園         2013年4月5日(金)

赤坂交差点から公園出入り口を見る
茶屋ケ坂公園
……千種区鍋屋上野町字汁谷
 茶屋ケ坂公園は当社からほぼ西へ2.5kmに位置しており千種区鍋屋上野町字汁谷地内(一部揚羽町)にあり、赤坂バス停を降りてすぐのところにあります。公園東側・東南側には市営北希望荘・南希望荘が隣接しています。茶屋ケ坂池と広大な自然林に囲まれた起伏の多い散策道が整備されています。北垂れ斜面にある林を下ると池・公園が平な部分にあって、さらに市道を横断するあじさい橋を渡ると公園北端の野球場・児童球戯場・児童園等があります。地下鉄茶屋ケ坂駅までは徒歩3分くらいで、また基幹バス茶屋ケ坂バス停も近く交通の便が良いところにあります。駐車場は用意されていませんので、徒歩・自転車・公共交通等で行くのが良いでしょう。
茶屋ケ坂池を南東方向から見る
茶屋ケ坂池
 園内にはあじさい園があり開花時期にはアジサイ・アマチャ・ガクアジサイ・ベニガクなどの花でいっぱいです。茶屋ケ坂池は鴨などの渡り鳥が飛来してきますが入場禁止になっており、魚釣りも禁止となっています。茶屋ケ坂池は以前は“新池”と呼ばれていて、名古屋新田の田畑を潤す用水池であったとのこと。明治9年(1876年)の地籍図ではその上流の希望ケ丘辺りにもう一つの溜池があったことが分かるそうです。溜池ができた往時は池の周辺は普段人も寄り付かない寂しいところであったため、昭和初期に地元有志が共同出資して池の北側に売店を設け、池に貸ボートを浮かべて水泳用飛び込み台も造られたとのことです。当時はちょっとした名所であったそうです。

久里屋設計界隈散策−その39 香流川横堤         2013年3月22日(金) 

光ケ丘一丁目側から横堤を眺望する
香流川横堤
……千種区竹越一/千代田橋二地内
 横堤は当社から西へ直線距離で約1.7kmの位置にあり、千種区内の竹越一丁目と千代田橋二丁目の間に伸びています。写真手前の大通りは基幹バスレーンのある県道田籾名古屋線(出来町通)です。奥の方にに見える県営竹越住宅の向こう側に香流川と合流してすぐの矢田川が右から左へと流れています。横堤は写真正面の位置から楕円形に画面左手へ湾曲しながら千代田橋南まで伸び総延長約500mの規模です。千代田橋二丁目辺りから西側を香流川の増水から守るべく土手状に造られており、今は歩道付き道路になっており生活道路として利用されています。この左手堤下に千代田橋小学校やアピタ千代田橋店があります。
この先が横堤起点(汁谷交差点)
竹越一丁目側から横堤南方を見る
 竹越一丁目地内から横堤起点(汁谷交差点)方向の南側を撮ったものです。もともと明治時代初期にはこの辺りは旧猪子石村地内にあり野田・猪々道(シシノミチ)と言う字名で呼ばれ湿田となっていたところだそうです。右側が横堤で歩道帯は桜並木道となっています。堤の高さは高いところで約4mあります。大雨時に香流川が増水して溢れた水をこの横堤で食い止め矢田川方向(こちら側)へ押し返し導くための洪水対策として幕末に造られたものであり、矢田川・香流側の合流点である千代田橋の上流側(県営竹越住宅辺り)は広い遊水池になっていたそうです。今は堤下には猫ケ洞池からの排水路が通っているとのことです。

久里屋設計界隈散策−その38 ちょろちょろ弘法       2013年3月8日(金)

左手に県道田籾名古屋線、右手は丘へ続く市道
ちょろちょろ弘法
……千種区御影町一丁目地内
 ちょろちょろ弘法は当社から西へ直線距離で約2.5kmの位置にあり、名古屋市営交通の基幹バスレーンがある県道田籾名古屋線沿いにあります。地下鉄茶屋ケ坂駅より徒歩3分位の位置で、大通りに面しており車や基幹バスの車窓からもよく見え、弘法大師(空海)の石造坐像が祀られています。前の通りはよく通過しますが、弘法さまであることはついぞ最近までは知りませんでした。お堂は珍しく北向きに設置されておりますが、道路が拡幅される前はもう少し西方にあったようですから本来はそうではなかったかも知れません。この辺一帯は昔湧き水が湧いていたらしく、すぐ近くの地名“汁谷”も山斜面から清水が湧き出ていたことから付けられた名前のようです。  
北を向く弘法大師坐像安置の祠
弘法堂祠…北側大通りに面する
 傍らに水道の立柱水栓はありますが、今は湧き水が全く出ておらず昔はここから湧き水が湧いていて街道(山口街道)を通る人々が利用していたのでしょう。弘法清水とも呼ばれていたそうです。弘法大師にまつわる伝説の水(弘法水)は全国に一千数百ヶ所あるとも言われています。そしてこの弘法水は平地には少なく丘陵地・山中の谷頭・地形の変換点・山頂などに多くあるらしく、また日本海側・東海地方には少ないようでここ愛知県では他府県に比べ特に少ないようです。弘法水の由来は弘法太子が全国行脚の際、喉が渇いて水を所望せしとき人々がはるばる遠くから水を運んできてくれたので、その御礼に地面を杖で突きそこから水を湧き出させたと言うものです。

名古屋市中高層建築物条例改正について           2013年2月22日(金)

名古屋市鶴舞公園噴水塔
 平成25年4月1日より“名古屋市中高層建築物の建築に係る紛争の予防及び調整等に関する条例施行細則”の一部が改正され、ワンルーム形式住戸に対する名古屋市の定義が25平米以下から30平米未満に変更されます。以前ブログで話題として取り上げましたが、名古屋市内で共同住宅を建築する場合駐車場の付置義務が課せられており、用途地域に応じ総戸数に対して7割〜3割の割合で設置をしなくてはなりませんがワンルーム形式住戸に限ってはその半分の必要台数で許されるのです。
 投資型ワンルーム形式住戸がいまだに25平米以下かつ狭小のものを造り続けています。都心部では驚愕の20〜21平米の広さのものでも平然と造っている業者がまだ結構います。東京圏のような土地の狭い所へ人口集中しているような劣悪な住環境ならいざ知らず、名古屋圏ではナンセンスな物件であると言わざるを得ません。こけおどしのエントランスデザインや小手先の小細工などに単純に引っ掛かり、いまはまだ入居する人がいるようですが将来のことを考えると空恐ろしくなってきます。
 これまでこの25平米と言う名古屋市のラインがあったため、狭い土地で駐車場台数を抑えて戸数を少しでも多く取って運用利回りを高められるよう皆競って25平米以下のワンルーム形式住戸を造り続けてきました。名古屋市内の様相が郊外にもそのまま影響を与えてしまい、名古屋圏全体にも波及することとなり続けててきました。しかし近年になってワンルーム形式住戸の供給過剰による空室拡大が深刻な問題となり、従来型との差別化を計るため25平米越えのものが大分増えてきています。
 しかし今後はこの名古屋市中高層条例の細則改正により、ワンルーム形式住戸の専有面積が30平米近くのものが主流になって行くことでしょう。その結果狭小ワンルームに対するゆとりワンルーム拡充による駆逐が進むことになるでしょう。客観的に考えれば25平米の広さは駐車場2台分のスペースに過ぎず、まともに洗面脱衣スペース・キッチンスペース・収納スペース等も取れずプアーな居住性であることは間違いありません。ワンルーム形式住戸の広さと質の革命がきっと起きるでしょう。

久里屋設計界隈散策−その37 牧野ケ池緑地         2013年2月8日(金) 

静まりかえる牧野池
牧野ケ池緑地
……名東区猪高町高針地内
 名東区三大公園の一つである牧野ケ池緑地は愛知県営都市公園で、当社からやや東寄り南方4.8kmの猪高町高針地内にあり一部は天白区にまたがっています。公園面積147haで75haが池を囲む緑地公園、72haがゴルフ場として整備されています。多目的広場・自由広場・芝生広場・冒険広場・わいわい広場などが整備されており駐車場も3か所にあります。牧野ケ池緑地公園はもともと昭和15年(1940年)に名古屋市防空緑地として都市計画決定され供用開始したもので、公園名称は園内北部にある溜池“牧野池”に因むとのこと。池は愛知県内で2番目に大きい周囲約3kmの溜池で、池の用水を使って耕作した田を“牧田”と呼んだことから牧野池と名がついたそうです。
変化に富むフェアウェイ
愛知カンツリー倶楽部
……(東山ゴルフ場)
 そもそも牧野池は江戸時代の天保三年(1646年)に、数年間の歳月を費やし尾張藩郡奉行勝野太郎左衛門により灌漑用に作られた溜池で、市内では最も大きく現在16haの面積ですが平成元年1月時点では23haの広さがあったとのこと。かつては尾張徳川家の御狩場でもありましたが今では渡り鳥の飛来地となっています。過去“牧池”“牧大池”“牧ノ大池”“牧ノ池”など色々な呼称がありましたが大正時代“牧野池”と表記が統一されました。にも拘らず1940年の都市計画決定時に“牧野ケ池緑地”と誤記されて以来“牧野ケ池”“牧ノ池”などの呼称が使われてしまってきたとのこと。このため池の名称を国土地理院に修正依頼して2009年正式に“牧野池”に戻りました。 

久里屋設計界隈散策−その36 蓮教寺           2013年1月25日(金)

石碑の右手奥に山門が見える
蓮教寺…名東区高針四丁目地内
 蓮教寺は先にご紹介した高牟神社から東へ280mくらいの所、名東区高針四丁目地内にあります。由緒書きによれば、高針山と号し平安時代長徳年間に創建され天台宗に属していたお寺です。山内に誓光坊・智根坊・泉蔵坊の塔頭もありましたが、承久年間の兵火により焼失したと伝えられています。永禄四年(1561年)喜雲院宮真智上人当山滞在の折、中興の祖蓮光がその教えに深く感銘を受けその後天台宗から浄土真宗高田派に変わることとなったとのこと。また山門前の石碑は円遵上人が文化十三年(1816年)に書いたと言われる直筆書が彫られているとのことです。
時代の感じられる本堂
蓮教寺本堂
……創建当時のものと思われる
 往時は蓮蔵院・蓮華蔵教院・明眼寺とも言われていたが、元和年間に法雲山蓮教寺と改称されることとなり、現在地には正徳六年(1716年)に移転されています。宝暦八年(1758年)に本堂、同十三年に庫裏が上棟したと伝えられる。その後寺門隆盛となり、文化九年(1812年)に書院・山門が建立されたとされている。この伽藍の全容が当時の名刹の一つとして尾張地誌として知られている“尾張名所図会”【天保十二年(1841年)版】にも紹介されているとのことです。境内に入ると木造建築の主要堂宇に取り囲まれ江戸時代の雰囲気が漂っているのを肌で感ずることができます。

久里屋設計界隈散策−その35 高帝龍王神         2013年1月11日(金)  

龍王神入口鳥居
高帝龍王神…名東区高針二丁目地内
 高帝龍王神は高牟神社本殿のちょうど南方向、入り口鳥居のある南側道路を少し東へ行った辺りに道路を隔てた街区(古谷公園の西隣)にあります。先にご紹介した東勝寺から東へ約300mに位置しており、この龍王神の南辺りに尾張高針城址があったと言われています。高針城は東西72m南北63mの規模であったとのことです。龍王神の入口は南側の鳥居からで、樹木に囲まれた狭くて短い参道を通って本殿前に着きます。
正面奥に本殿が見える
龍王神本殿
……大きな木の幹に寄り添っている
 昔樹齢300年と言われた幹廻り5mもある黒松の大木が今の本殿裏手にあって、その木が朽ちたあとの穴に蛇がたくさん住み着き、さらにそれが評判となり遠方からの見学者も多かったとのことです。それを龍神様の使いと信じ昭和15年に祀ったのが起源とのことです。今ではその蛇の姿を見ることはできませんが、以後無病息災商売繁盛・一切の厄除け心願成就の守護神/地域住民信仰として親しまれているとのことです。

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    昭和56年創業

 

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